2歴代誌6章

6章 神殿奉献の祈り

<要約>

おはようございます。私たちに教会が与えられていることの恵みを深く感じさせられるところでしょう。教会というのは、まさに神の恵みを味わう場、人では満たしきれない、神の満たしを味わう場です。そのような意味で教会をないものねだりをし、さばき合うような人間関係の場と堕してしまうようなことがあってはなりません。主に期待しましょう。主の恵みは豊だからです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.「黒雲の中に住む」

神殿奉献の祈りが記録される。歴代誌の著者にとっては一番、重要視したいところである。そのまず開口一番に、ソロモンのことばが引用される「主は黒雲の中に住む」。それは、当時のイスラエル人の間にはよく使われたフレーズだったのだろう。つまり、「黒雲」と訳された言葉は、ヘブル語でアラーフェル。「闇」と訳されるホーシェクではない。それは、雲が厚く重なった暗さをイメージし、イスラエルの人々には、特別な体験を思い起こさせることばであった。かつてイスラエルの民は、エジプトの奴隷状態から救い出されて、シナイ山へたどり着いた際に、そのシナイ山の空に広がる黒雲の中に、自分たちを救い出した神の臨在を、厳粛な思いで体験した(出エジプト20:21)。実に、神は近づき難いお方でありつつも、身近に、私たちに向かい合って臨在されることを彼らは知り、それを、子々孫々に伝えてきたのである。そこでソロモンはまず、かつてシナイ山でイスラエル人が体験したように、今日この神殿にも迫力をもって、神様がまぎれもなく臨在してくださるように、と願ったわけだ。

2.ソロモンの証

次にソロモンは、三つのことを証する。

①ソロモンは、ダビデに代わって王位についた(10節)

②ソロモンは、この宮を立てた(10節)

③ソロモンは、主の契約の箱をそこに置いた(11節)

それはすべて、主の約束の成就であるという(4,10、15節)。ソロモンが高められたのも、ソロモンがこうして教会を建て上げることができたのも、実に、神の約束の確かさを確認することであった。私たちキリスト者の人生は、全て神の約束の成就として導かれるものである。私たちの頑張りではない。確かに私たちは努力することもあるだろう。しかしその努力を実り豊かなものにしてくださるのは、神なのである。

3.とりなしの祈り

続いてソロモンは、四つのとりなしの祈りを具体的にしている。

一つは罪を犯した時(24-27節)。自分に非を感じる時にこそ私たちは、敵に打ち負かされた、神に祝福を拒まれた、と暗闇に沈んでしまうものだ。そして近づき難き神をますます遠く感じてしまう。が、そんな時にこそ、神の宮で「立ち返って御名をほめたたえ、祈り願」うことが期待される。罪が赦され、回復され、再び主が祝福を注いでくださるようにと祈るのである。実に、神殿がダビデ王の悔い改めの場に建てられたことは象徴的である。第二に、ききんや疫病、害虫による災害、いわゆる不慮の災いに巻き込まれる時。自らの落ち度によらぬ災いに苦しむ時に、神の民は、神の宮に足を運び、祈り願い、神の報いを受けることが必要である(28-30節)。それは、神の民ではない異邦の民も同じで、神は全人類の父であり、全世界の人々を其々の時代と地に定められたお方である。神の宮は、外国の民にもまた、祈りをささげる場として開放されている(32-33節)。この祈りに招かれたのがまさにアハブ王であったと言えるのではないか。しかし彼は神の人エリヤに導かれながらも、頑なにその心を閉ざし続けたのである。第三に、私たちが敵に立ち向かう時、私たちがチャレンジを受ける時に、神の宮は祈りの家とされる(34-35節)。これを実にそのまま受け止めて祈ったのが、ヒゼキヤなのだろう。ヒゼキヤは、アッシリヤに包囲され、降伏の脅迫を受けた時に、その手紙をもって主の宮に上り、主の前に広げて祈ったのである(2列王19:14)。そして最後に、第四に敵に敗れた時(36-39節)。この箇所は、いささか預言的である。ソロモンの時代に、北イスラエルのアッシリヤ捕囚や南ユダバビロン捕囚が予測されているかのようである。そしてこのことばをそのまま受け止めて祈ったのが、ダニエルだろう。彼はいつも、エルサレムの方を向いて、祈ったのである(ダニエル6:10)。つまりいつでもいかなる時にでも、私たちは教会へ足を運び、主の祝福を熱心に求め、主の恵みに預かることが大切なのだ。

神は、約束を守られる誠実な方であるばかりか、実にソロモンが期待を寄せたことに応えられるあわれみ深い神である(14節)。だから私たちが神をどのようなお方と理解し、信じるかが重要である。神などいないと思ってしまえばそれまでであるし、神を信じていても、神は私などには何の興味もないし何もしてくださらない、と思ってしまえばそれまでである。後ろ向きの信仰のゆえに、人は神の祝福を受け損なっていることがある。神の宮は、罪人が希望をもって祈りをささげる場である。神の家が祈りの家と呼ばれるのは、そのためだ。神を信じよう。信じて、一歩踏み出して歩ませていただこう。