2歴代誌7章

7章 神の臨在に触れる

<要約>

おはようございます。神殿奉献式の最後に、幕屋で起こった主の黒雲の臨在が、繰り返されます。主は臨在される。そして主の契約に対する誠実さが繰り返し語られます。私たちにとって決定的なのは、この神の契約に対する誠実さの希望です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.主の臨在に満ちた神殿

ソロモンの祈りに、神は火を持って応え、ご自身の宮に栄光を満ちたらせた。神がソロモンの祈りを受け入れたことは誰の目にも明らかにされた。イスラエルの民は、「ひざをかがめて顔を地面の敷石につけ、伏し拝んで、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と主をほめたたえた。」と言う(3節)。まさに「黒雲の中に住まわれる」モーセ時代の主の臨在が変わらぬことが示された、と言うべきだろう。幕屋の時代は終わったが、幕屋を継承する神殿の時代がこうして始まった。そして、神の臨在に触れて、恐れつつ主を賛美し、主に感謝する礼拝の本質は継続されていく。

7日間の神殿奉献式に、7日間の祝祭が続けられた(8-10節)。レボ・ハマテ(8節)は、ダマスコの北の町、イスラエルの北端を意味する。エジプト川は、シナイ北部地中海に注ぐ川で、エジプトとの境界、イスラエルの南端を意味する。要するに、祝祭は、ソロモンが統治した広大な領地からの参加者を迎えて、大規模に行われた。それは、神の約束が真実であることを互いに確認し合う時であった。だから、彼らの心は喜び、心楽しく帰っていくことができたのである。

2.神の契約に対する誠実さを覚える

礼拝の醍醐味は、神の契約の確かさ、神の契約を実行する誠実さを覚えるところにある。私たちの教会の歩みを通じて、神は確かに約束通りに私たちを祝福してくださった、と確認するところに、礼拝の祝福はある。人間的な交わりが私たちを祝福するのではない。賛美、合唱の豊かさが私たちを祝福するのではない。主が成してくださった、主が導いてくださった、その誠実さを覚えるところに希望や喜びが内側から満ち溢れてくるのである。

その夜、神はソロモンに現れて、明確にご自身の意志を伝えられた。神はソロモンの祈りを聞いたことを確約している。神はあわれみ深く、慈しみ深いお方である。回復の神であり祝福の神である。いつも、神の目と心は、主の宮の上にある。教会において、私たちがへりくだり、祈りをささげ、神の顔を慕い求め、立ち返るならば、神が親しく耳を傾け、天から聞いて、罪を赦し、癒される。神がそこに集う人々に回復をもたらす場が教会なのだ。しかし同時に、神は、警告される。もし、神に背き、おきてと命令を捨て去るなら、神は投げ捨てられる(19-21節)。それは、「どういうわけで、主はこの地とこの宮とに、このような仕打ちをされたのだろう」と周囲の人々に驚きを与えるものとなる、と。

大切なのは、イスラエルの民が、まさに神殿が破壊され、神に捨てられ、バビロン捕囚の歴史を経験した後で、このことばを聞かされているところである。かつては、並びもなく高かった神の宮が戦禍に崩され、灰と化し、側を通り過ぎる者が、どういうわけでこの地とこの宮にこのような仕打ちをされたのだろうと驚く、そんな経験を実際に味わった後でのことだ。エズラに率いられ、祖国の地に帰って来た民が、自分たちの歴史に生じた神殿破壊の意味を覚えさせられている。問題は、そこでどのような態度を持つかである。神が警告された通りのことが起こった、もうダメだと失意の中にあり続けるのか、それとも、そこで、最初に語った、神の目と心はいつも主の宮の上にあり、あわれみ深く、慈しみ深い神に心を向けて立ち返っていくのかである。

神は警告して罰せられて終わりではない。警告に聞き従わず、失敗した人たちを投げ捨てたままにされるお方でもない。もはや時遅し、神のあわれみを受ける資格もなし、と思える時でも、人が心低くし、神を求めるならば、あわれみ豊かな神である。神は誠実な方なのである。回復してくださる神にいつでも期待を抱いて、求めることにしよう。