2歴代誌12章

12章 レハブアムの悔い改め

<要約>

おはようございます。人間は、愚かさを繰り返すところがありますが、私たちはどこかで単なる繰り返しから離れて、心を定めることを学ばなくてはならないのでしょう。心を定めて主にお仕えする、主の恵みを求め続けていく。そこに、主の豊かな恵みもあると言えます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.レハブアムの離反

レハブアムは王位が確立すると、主の律法を捨て去った。一般に、古代の王たるべき者には、三つの主要な務めがあった。軍隊を統率し、外部からの侵略者を撃退する。国内の行政を司り、国の安寧秩序を守る。そして神殿を建て、神々を喜ばせることであった。しかしイスラエルの場合は、特別な務めがあり、それは主の律法を自ら学び、自らに教え、これに生きる姿を示すことであった。だから、レハブアムがその務めを捨て去ると、全イスラエルもこれに倣ってしまうのである。ユダは、北イスラエルの後を追うようになり、もはや主に従う国というそのアイデンティティが失われようとしていた。

ユダの国は、主の栄光を証する地の塩としての役目を担うはずであったが、王をはじめ、国民も皆、もはや塩気を失った、役立たずの塩と化してしまった。そのような国にどんな存在意義があるのだろうか。諸国の興亡の流れの中で、朽ち果てる他はない。

2.主の裁き

ユダの国は神の裁きを受けていく。レハブアムの治世の5年目(BC993年)に、エジプトの第22王朝のシシャク王が、戦車1200台、騎兵6万の大軍をもってイスラエルに侵略し、主の宮と宮殿にソロモンが蓄えた富を全て奪っていくのである。このあたりの事情は、エジプトのカルナック(古代のテーベ)のアモン神殿の壁に、あるレリーフにも詳しく記されている。シシャクは、ガザ、アラド、アヤロン、ベテ・ホロン、ギブオン、ティルザ、ベテ・シャン、タアナク、メギドなどパレスチナを縦横に占領し、まずユダ南王国に圧勝し、エルサレムにまで迫った。これに対して、ユダ南王国は、エルサレム神殿の財宝のほとんどをシシャクに明け渡すことでエルサレムの破壊を免れている。シシャクは北のイスラエル王国にも勝利を収め、ギルアデにまで遠征、イスラエルの王ヤロブアムを追いつめている。築いた防備の町々は破壊され、ソロモン王国の繁栄は跡形もないほど蹂躙され、ユダ南王国も、イスラエル北王国も、シシャクに滅ぼされる寸前であったのである。

3.レハブアムの悔い改めとその結果

預言者シェマヤが、やって来て、これが主の手から出たことであると警告を発する。すると、レハブアムは「主は正しい」と主の裁きを認めている。それによって主はユダを完全に滅ぼされることはなかった。大事なのは、「主は正しい」と主の正しさを認め、主のもとにレハブアムが遜った時に、神が彼らを回復されたことである。「わたしは彼を滅ぼさない。間もなく彼らに救いを与えよう」(7節)。

12節。「ユダにもよいことがあったからである。」とある。悔い改めの行動を取ったことで、神が裁きの手を差し控えられたと理解される訳である。しかし、原文には理由説明を示すことばはない。ここで言われているのは、悔い改めたことにより、「ユダが、良い状態になった」ということである。つまり、ここで理解すべきことは、神は、人が悔い改めるなら思い直されて祝福されるという単純な図式ではない。というのも、悔い改めは神が祝福されているからこそ起こるものだからである。人が神の哀れみによって、神の祝福と恵みに気づかされるからこそ、悔い改めが起こり、そして、神の元に安らぐことも起こる。結果良い状態が保たれる。だが罪の結果は残るという現実もある。イスラエルは滅ぼされなかった、救われた、しかしエジプトの支配を受ける結果となり、良い状態は保たれた、というわけである。

しばしば人は、辛辣な人生を歩まずして、神を認めることができない。何もかも失われて、裸も同然になって初めて神を仰ぐことがある。しかし、そんな悟りのない者であってはならないのだろう。人の祝福の根源である主を捨て去って、人に祝福はない、そんな当たり前のことを人は忘れやすい。何かあって「主は正しい」と認めざるを得ない人生ではなく、いつでも主を認め「主は正しい」と信頼して歩みたいところではないだろうか。神の哀れみ深さを覚えて、謙虚に歩みたいところではないだろうか。

14節「彼は悪事を行った。すなわち、その心を定めて常に主を求めることをしなかった。」とある。彼の問題は、「心を定めて常に主を求めることをしなかった」ことにある。つまり歴代誌の著者が、捕囚帰還の民に語り掛けていることは、悔い改めた次に、心を定めて常に主を求めることであった。だから悔い改めて心を定めた者には、このエピソードは、福音に聞こえたはずである。もはや、ペルシヤの支配下という制約の中にあっても、彼らは、良い状態になることを許されている。大切なのは、悔い改めを一度限りで終わらせず、心を定め、主を求め続けることである、と。

人が自らの栄誉を取り戻すためには、悔い改める以上に、心を定めて常に主を求める歩みが必要だ。何かあって悔い改める、あるいは悔い改めの連続であるというのも一つの在り様であるが、さらに進んで、求め続けることに心を定める、神の子として成長する歩みが必要なのである。それは忍耐を要する地味な歩みであるかもしれない。しかし、信仰は本来地味なものである。地味ではあるが、信仰の高嶺に歩み進む恵みも日々豊かに味わっていくことができるものである。