2歴代誌13章

13章 アビヤと聖戦
<要約>
おはようございます。私たちはしばしば旧約聖書は律法、新約聖書は福音と単純化してとらえていますが、旧約聖書にも神の豊かな愛、恵み、永遠の契約が語られていることに注意すべきなのでしょう。今朝は、アビヤが、神の契約に基づいて、助けられ、救い出されているところに注目したいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.歴代誌におけるアビヤの特殊な記録
レハブアムの子アビヤの記録である。1列王記15章では、アビヤムという名で登場し、その生涯はわずか8行に過ぎない。また1歴代誌の著者が記した北イスラエルと戦ったエピソードは記録されていない。つまり1歴代誌には、どうも意図的な加筆があるのであって、この加筆に注目することが、この章を読み味わうポイントになる。
まず、アビヤは、まことの神に従い、より頼む40万の精鋭を揃え、神に反逆し、金の子牛を拝むヤロブアム80万の精鋭と一戦を交えている。しかし、力と戦略の差は歴然とし、アビヤの軍隊はヤロブアムの軍隊に前後を挟み撃ちにされ絶体絶命に陥っていく。ところがそこで、アビヤがまことの神を呼び求めると、神がアビヤに味方し、ヤロブアムを打ち破られるのである。
このアビヤの大どんでん返しには、二つの注目すべき点がある。一つは、悔い改めから信仰と信頼への強調の変化がある。これまでの礼拝の再建というテーマからすれば、礼拝の再建は、礼拝的生活の再建、つまり日々の信仰生活の再建に他ならない。正しく神を礼拝することが、私たちの人生にいかに大きな力をもたらすものであるかを教えられる。そのような意味で、北イスラエルに対する「戦線布告」は、「聖戦布告」となっている。
けれども、このような考え方がわかってきても、実際にそのとおりに生きることができるかどうかは別である。大切なのは、礼拝を重ねる度に、そのような考え方が生き方となっていくことなのだろう。人の生まれながらの性質は、いつも力と戦略を重視する。そして、お金、家柄、地位、人望、そうしたものがなければ何もできない、と勝利の可能性を思い描けずにいる。危機的状況にあっては敗北する他はないと諦めてしまうのである。神を信じているようでありながら、信仰の一欠けらもない現実がある。
2.歴代誌のアビヤに対する評価
次に、アビヤに対する歴代誌の評価は列王記のそれと違う。列王記では、アビヤは、「彼は父がかつて犯したすべての罪を行い」(15:3)と描かれているが、歴代誌のアビヤはむしろ神を呼び求める信仰者である。大切なのは、アビヤが過去の恩恵に立っている点である。アビヤに対する神の祝福は、アビヤ自身に根拠があるのではない。ダビデが結んだ契約にある。それは、私たちの祝福がイエス・キリストの十字架に根拠を置くようなものだ。つまり、アビヤは悪い者であっても、神の恵みに立った時に、神はアビヤに応えられた。そこで読者は、アビヤが「塩の契約」と呼んだ、契約により頼む信仰が、日常において実行されるべきことを考えさせられるのである。塩の契約は「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(2サム7:16)、と神がダビデに語られたものだ。これが塩の契約と呼ばれたのは、それが永遠、不変のものであったからだ(民数記18:19)。その契約に立つのである。確かにキリストは、私たちを永遠の契約の血によって、永遠に続く恵みの中にいれてくださったのである(へブル13:20)。
神による大どんでん返しの勝利を信じられないなら、いつでもないない尽くしの自分に祝福の根拠を求めていく他はない。しかしキリストの業により頼む時に、ないない尽くしの中で希望がある。そうした信仰を確実にしていくものとして礼拝がある。礼拝によって、私たちの信仰は深められ、成長させられ、高められるのである。