2歴代誌14章

14章 アサの信仰

<要約>

おはようございます。神など信じても意味がない、現実は厳しいのだと思われることはあるものでしょう。しかし、懐疑的、後ろ向きな心で、聖書を開くと、またしても大どんでん返しのお話です。こんな信仰は私には関係がない、持ちえない、と思う人も多いでしょうが、歴代誌の著者は、なおも私たちに信仰を持つように、と迫ってきます。そして、よく読めば、信仰を持った彼らも、実のところ、ただ神により頼まざるを得なかった状況に置かれていただけなのだ、ということがわかります。神を求める以外に、彼らに救いはない。あらん限りの声をあげて、主に叫び求める他はない、状況にあっただけなのです。神に素直に心を開きたいところではないでしょうか。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.アサに与えられた安息

アビヤに代わって王となったアサは、10年の間、主に平穏何事もない時代を与えられ、防備の町々を築くことができた。彼に戦いをいどむ者がいなかったのである(6節)。アサは、それが「私たちが私たちの神、主を求めたからである。」(7節)とする。大切なのは、自分の弱さを認めて、神に望みを抱くことだ。神を呼び求める以外に、何も生きるすべのない自分を素直に認め、主に叫び求めることではないだろうか。

彼が主に呼び求めた証は、彼が「異教の祭壇と高き所を取り除き、柱を砕き、アシェラ像を打ちこわした」(3節)ところにある。また、「ユダに命じて、彼らの父祖の神、主を求めさせた」ところだ。自ら従うだけではない。王として自国の民に、主を求めるように指導している。何か、国力増強のために成果を出せ、というわけではない。ただ国民一人一人が主を求めて生きることを教えていくのである。彼は指導者として、今日も主に祈ろうではないか、と掛け声をかけた。そして具体的に行動した。

2.アサの試み

そんな神への忠誠を試すかのように、アサに対抗してアサの倍の軍隊を動かすクシュ人ゼラフが現れた。クシュは、東アフリカのエチオピヤあるいは、スーダンに位置する国である。当時エジプトはスーダンの一部を支配していたとされ、おそらく、エジプトの後押しを受けたアラビヤの侵略者たちであったのだろう。その数、ユダが58万、侵略者のクシュ人は、100万プラス300台の戦車である。またしても、父アビヤの戦いに匹敵する(ユダ40万、その敵ヤロブアムの軍隊80万)倍近い敵を相手にする勝ち目のない戦争である。そんな巨大勢力を前にしては、束の間の安息の時に築いた防砦都市も無に帰せられる、そのような状況の中で、アサが語ったことばに注目される。「【主】よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、【主】よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。【主】よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並ぶようなことはできないようにしてください。」(11節)。

ネヘミヤ的に言えば「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい」(ネヘミヤ4:14)というところではないか。捕囚期の民はもちろん、現代の私たちにも大いなる励ましである。

力の強い、ないは、私たちには問題であるが、神には全く問題ではない。神の力を信頼するとは、そういうことだ。人間はまず自分たちが優勢であるか劣性であるかを考える。しかし、神にそんなことはおかまいなしである。神は、無から有を生じせしめる全能の神である、その方を信じるのだ。つまり信仰を持つというのは、神の可能性にかけることに他ならない。だからこそ、望みなきところに望みを抱く、大どんでん返しを期待しうるのである。神など信じて何になるだろう、というのは、無力な自分に目を向けているからである。自分に味方する者が少ないことを気にかけているからだ。自分が持てるもの、持たぬものに、心を囚われている。自分ではない、神に目を向けなおしてみよう。そして、「主よ。私たちを助けてください」と素直に、心から主に叫び求めようではないか。