2歴代誌19章

19章 ヨシャファテの回心と改革

<要約>

おはようございます。ヨシャファテがアハブとの同盟戦争において九死に一生を得ることにより、神に立ち返っていきます。本来ならば終わった人であったのでしょうが、神は、ヨシャファテを守り導かれ続けます。ヨシャファテの悔い改めと、改革が描かれていきます。チャンスを与え続けてくださる主に信頼して歩みたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ヨシャファテの悔い改め

ユダの王ヨシャファテは、命を落とす危機に陥ったが、救い出された。それは全く神のあわれみによるものであった(18:31)。実に、ヨシャファテは、無分別で頭の弱い人間であり、その愚かさのゆえにほとんど滅びかけていたにも関わらず、神に助け出されたことの意味をよく考えたいところだろう。神はエリート好みでも、成果主義のお方でもない、ということだ。神と人間の関係の中心は契約関係にあり、単に、人間が神にとって好みであるか否かの問題ではないし、律法を守るか否かの問題でもない。だから人間にとって重要なのは、神に心を開き、いつでも率直に、神の愛を願うことである。

先見者ハナニの子エフーが、悔い改めを勧めている。そして、ヨシャファテが釣り合わぬ縁組という失敗を犯しながらも、「心を定めて常に神を求めて来た」事実があることも、神は認めておられる、と伝えている。ヨハネが、エペソの教会に語り伝えていることを思い出すところだ。「あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」(2:4)と。しかし同時に「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている」(2:2,3)と。

神は、私たちの全生涯を受け止めて、私たちを正しく導かれるお方なのである。だから、神は、私たちが犯した失敗、過ちに対しては、悔い改めを求められるが、続いて神はさらに先へと私たちを導かれようとする。常に神は私たちの生涯全体を見ておられるのである。私たちはそのことを理解し、ヨシャファテのように恐れて、「自分のする事に注意しなくては」(6節)ならない。というのも、私たちは、自分のために生きるのではなく、主のために生きるのであり、働く者は、「人のためではなく、主のために」その働きをするからである(6節)。だからいつでも道を誤ったと思うようなことがあるならば、その事実を認めて、悔い改めて神に立ち返ることが大切なのだ。

2.主に心を定めるヨシャファテ

悔い改めたヨシャファテは、「ベエル・シェバからエフライムの山地に至る民の中へ出て行き、彼らをその父祖の神、主に立ち返らせた」(4節)と言う。ベエル・シェバからエフライムというのは、ヨシャファテの領地全体を指す。つまり、ヨシャファテは、自分の国の伝道者となったのである。そしてヨシャファテは、自らやり残している事業を再開した。すでに組織された軍隊(17章)に加えて、ここでは官僚制度、特に裁判専門職を整え、その中心に主を畏れることを置いている。「私たちの神、主には、不正も、公正も、えこひいきも、わいろを取ることもない」(7節)ヨシャファテが立ち返ったのは申命記律法であった(申命記16:18-20、17:8-13)。私たちも悔い改めには、常に基本に立ち返らなければならない。それは、イエスの十字架であり、かつ、イエスの二大律法、すなわち神と人を愛するということになるだろう。表面的な立ち返りではなく、心から、主の十字架に応答した歩みをすることである。

またエルサレムでは、高等裁判所的な法廷を設置した(8節)。祭司アマルヤは主として宗教関係を、ユダの家のつかさゼバデヤは主として民事関係を担当する最高責任者となり、レビ人は、新共同訳では「書記」と訳されているように、いわゆる高裁の裁判官たちの補佐役として採用された。内政の充実が図られたのだろう。しかしそれは、単に制度的に整えられたというのではない。神に与えられた職務の基本精神を確認している。「主を恐れ、忠実に、また全き心をもって、このようにおこなわなければならない」(9節)と勧めている。これは私たちも与えられた職務において心がけなくてはならないことだ。そしていつも、主に対してどうであるか、という視点を持って物事にあたることである。神と心一つの歩みを促されるところではないか。