2歴代誌29章

29章 ヒゼキヤの宗教改革

<要約>

おはようございます。ヒゼキヤの宗教改革は、イスラエルのそれまでの堕落を辿る歴史の流れを大きく変えるものでした。しかしその原理は極めて単純であり、ただ神に立ち返ること、原点に立つことであったのです。私たちも基本を大事にしたいところでしょう。主と盟約を結び、主に従う思いをしっかり持つ。そして、今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神に立ち返る

ヒゼキヤの宗教改革の記録であるが、ここに、私たちが、どのように神に立ち返るべきかが教えられている。

第一に、主と契約を結ぶことだ(10節)。アブラハムもダビデも皆、主と契約を結び人生を始めている。神との関係を明確にし、人生を再スタートすることである。アブラハムは、祝福の契約を神と直接交わしたが(創世記12章)、私たちは、キリストにおいてそれを交わすのである。つまり、十字架にある罪の赦しを自分のものとし、神の特別なあわれみのもと、新しい人生と祝福が許されていること信じる信仰に立つことだ(ヘブル8:13)。バプテスマはそのしるしである。そして聖餐式は、その確認の時となる。神の前に罪から離れ、悔い改め、主との契約を更新することに、ためらっていてはならない。いつでも自分が主から離れていると思う時には、悔い改めて、キリストのもとに集い、主の契約を確認し、その契約に立つことが大切なのだ。

そして第二に、自分の祭壇と宮を聖めることだ。ヒゼキヤの時代、神殿の玄関は閉じられ、ともしびの火も消され、香をたかれることも、全焼のいけにえがささげられることもなかった(7節)。同じように、自分自身の礼拝に向かう足はとどめられ、聖書も閉じられて棚に眠り、祈りの香もたかれず、神への献げ物もなされないことが、あるだろう。しかし、もう一度聖書を取り上げ、祈り、教会の門を叩くのである。神に従い、神に栄光を帰す人生をしっかり歩むことだ。そのために、教会に足を運び、あなた自身の祈りといけにえをささげるのである。

第三に、神に身をささげ、感謝と賛美のささげものを携えて歩むことだ(31節)。ヒゼキヤの宗教改革は、新しさを求めてなされたものであるが、契約の更新にしろ、身の聖別にしろ、感謝と賛美のささげものにしろ、新しいものは何もない。全てダビデ時代の礼拝の復興である(27節)。

2.ヒゼキヤの改革と捕囚期後の改革

ここでヒゼキヤの礼拝の復興が、読者にどんな意味を持ったのかを考えたい。捕囚帰還後、主の神殿の礎が据えられた時に、彼らは、まさにダビデの規定によって、ダビデ時代の楽器をもって主を賛美したのである(エズラ3:10)。さらに、彼らは、城壁を築き直された後も、歌い手を任命し、またその最初に律法の書を朗読し、主に対する契約を更新した(ネヘミヤ7-9章)。読者は、まさにこれらのイスラエルの歴史に教えられて、自分たちの生活を築き直した、というべきだろう。

となれば、私たちも歴代誌をただ、イスラエルの歴史として読むのではなく、ここに、私たちの信仰の範があるとして読んでいく必要があるのだ。

大切なのは、神にしっかり結びつく再スタートを切ることだろう。人を見て信仰生活をし、教会生活をすることからは卒業しなくてはならない。もっと大人になって、人がどうであれただ神と結びついて信仰生活、教会生活ができていくことが大切なのだ。人を見ているようでは、信仰は深まらない。信仰の創始者であり、完成者であるイエスを見上げ、イエスにのみ従う、そのような歩みをしなくては、信仰の高嶺に踏み進むことはできない。山登りもいよいよ高嶺に近づき難所にさしかかれば、足取りに注意しつつも、目標の山頂を見上げながら一歩一歩と足を先に進めて行くのと似ている。信仰も高嶺に踏み進めば進むほど、山頂を目指してただ一人、上へ上へと進むようになる。そしてただ主をのみ仰ぎ、主の導かれる高嶺へと、一歩一歩確実に足を踏み進めていくようになる。いつまでも皆と一緒という発想からは脱皮していこう。そして確実に、自分自身を磨き上げる、信仰の完成を目指して歩ませていただきたいものだ。