エズラ記8章

<要約>

おはようございます。エズラの神への信頼とその信頼を形にした姿を、教えられるところです。信仰は、告白されると同時に、行動に表されなくてはなりません。そうでなければどうして信仰がある、とわかるでしょう。信仰者には、その信仰を喧伝する必要はないとしても、その生き方の中に、確かに信仰があるとにじみ出てくる歩みがあるはずなのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.エズラの祈り

エズラと共に帰還した者たちの名前が記される(1-14節)。しかし彼らの中に祭司はいたが、レビ人を一人も見つけることができなかった(15節)という。つまり、神殿が再建されても、その祭儀を行う人々がいなかった。そこで、エズラは、ふさわしい人を捜しあてようと人を遣わした。急を要することであった。エズラは、「神の恵みの御手が私たちの上にあったので」「レビの子マフリの子孫のうちから思慮深い人」が連れて来られたとする。実に、私たちの必要がある時に、私たちの望みをかなえるのは、神の恵みの御手である。遜り、神を見上げる時に、神がそれにふさわしい人を送ってくださる。教会において人材が不足することはあるだろう。そこでまず、すべてが神にかかっているかのように、神に祈ることが大切であるし、神の恵みなくして、私たちは一歩も進めないという謙虚な心で神の業を求めていくことが大切である。

2.エズラの信頼

またエズラは、すべての守りが神にあるかのように行動した。エズラは道中の無事を神に願い求めている。彼は、「道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じた」という。なぜ恥じたのか。それは、エズラがアルタクセルクセスも認めた天の神は、人間の手で守られるようなお方ではないことを明らかにしたかったからなのだろう。

エズラが集めたささげ物の総額は約10億円の価値があったという。実際に、イスラエルが戦争で負け、すべてが没収された時には、400億円もの財産が奪われたというのだから、あながちあり得ない話ではない。つまり、彼らは10億円の財産を携えながら、エルサレムへと約1450キロの長旅をしたというわけだ。男性だけで1500名、女子どもも入れると約3000名の集団であったが、それは出エジプトに比べれば、あまりにも少人数であった。彼らは砂漠を避けて、普通の道を通ってパレスチナに北から入ったとされるが、こうした莫大な財産を抱えながらの、少人数による長旅は、決して安全ではなかった。だからネヘミヤの場合は、エルサレム帰還のために護衛隊を求めている(ネヘミヤ2:9)。

しかし、エズラは求めなかった。それは、常々彼が口にしている神への信頼のためであり、まことに生きておられる神を、この機会を通じてだれの目にも証するためであった。エズラは、自分たちが信じる天の神は、生ける神であり、寄り頼む限り、私たちを確かに守り、祝されるお方であることを常々語っていたのである(22節)。エズラは、自分が確信している通りに行動した。信仰は、理解ではなく信頼の問題である。そして神への内的信頼は、日常生活における外的行動において明らかにされる。だから、エズラは、すべてが神にかかっているかのように、断食し、神に願い求めて行動した。

すべてが神にかかっているかのように神に頼り切ったエズラを、神は、一切の危険より救い出してくださった。もし神がまことに生きておられるお方ならば、私たちは神が生きておられることを味わい知らなくてはならない。確かに、私たちが信じる天の神は、目があっても見えず、口があってもきけない、偶像の類ではない。神の力を味わい、自らの苦境が打ち破られることを知らなくてはならない。神に祈り求めよう。 “エズラ記8章” の続きを読む