エズラ記10章

10章 雑婚問題への対応

<要約>

おはようございます。雑婚の禁止、そして異教的な人々の追い出し、と何か厳格な信仰の道が説かれているようでもあるのですが、聖書の信仰はそれほど単純ではありません。人間の複雑な状況の中で、以下に神に生きるか、もっと複雑で愛に満ちたものというべきでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.価値観の一致

エズラ記最後の書は、雑婚問題への対応の記録で終わっている。1-6章までが帰還から神殿建設完成までの内容とすれば、7-10章は、帰還者の中の律法学者エズラの活動について語られている。しかしそれは雑婚問題への対応が中心となっている(9-10章)。

エズラは律法を教え、イスラエルの民の生活を回復しようとしたのだが、まさに、雑婚は、その中心的な問題になるほど大きな問題であった。もちろん、外国人の伴侶を持つことが悪いというのではない。問題は、信仰の共同体の基本である家族が、どんな価値観でまとまっているか、ということである。考え方はバラバラの単なる同居人という家族の在り方もあろうが、イスラエルは、神の祝福の器となるように選ばれた民である。神の祝福を認めることにおいて一致した思いがなければ、その選びの使命には立ちようがない。同床異夢では、教会は建て上がらない。エズラが行ったことの意味は、単なる考え方の一致をはかることではなく、同じ価値観に基づくビジョンの一致をはかったことである。

2.実際の処置

そこで、エズラは、代表者たちを集めてそのような勇気ある決断と痛みを伴う行動を起こすために、神の前に誓うことを求めた。そしていよいよ行動を開始した。同調しない者はユダヤ人社会から追放される厳しさがあった。第9の月は11-12月にあたり、先の雨の時期で、非常に寒い時期である。この時期にイスラエルの民は、集められ、実際に誰が雑婚をし、追い出されるべき対象となるかを明確にしたのである。祭司が17名(18-22)、レビ人6名(23)、歌うたい1名、門衛3名、他に84名(25-43)、合計111名がその対象となった。

しかしながら実際に追いだしたのだろうか?実際に、教理に従うべきことが正しいとわかっていても、人情的には許さないという問題はある。44節、口語訳は「これらの者は皆異邦の女をめとった者である。彼らはその女たちをその子供と共に離縁した。」と「離縁」という言葉を使って、3節の「追い出しましょう」に呼応する形で意訳している。しかし、ヘブル語の原文は曖昧で、新改訳2017もそうであるが、大方の訳はヘブル語原文どおり意味不明な曖昧な直訳となっている。

「追い出す」ことは、離縁そのものを迫る意味ではないのだろう。実際、神は赦しの神であり、救いの神である。新約聖書においても、パウロが提示する原則は「信者の男子に信者でない妻があり、妻がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。また、信者でない夫を持つ女は、夫がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。」(1コリント7:12,13)である。それは、伴侶の救いを第一と考えるところから来ている発想である。つまり追い出すというのは、神を第一とする生活を侵害されないことが大切なのであり、伴侶に対しても、信仰を促し、証し、神に立ち返る生活を期待すべきことを求めていくことに他ならない。

切り捨てることではなく、真の信仰と生活に目覚めさせ、決断を促し、神に立ち返らせることが神のみこころである。万人救済はありえないとしても、万人が救われることを願い、異教の伴侶ルツの告白が導かれる事を願う、それがまず実際になされたことなのだろう。物事には段階がある。まずは、価値の一致とビジョンの一致へと熱心に導く愛の行為こそが求められるのである。