ネヘミヤ記8章

8章 感動に満たされた礼拝

<要約>

おはようございます。城壁が完成し、町が建て直された後に、まず行われたのが、主の前での礼拝でした。ちょうど時は、イスラエルの新年を祝う第七の月、太陽暦でいえば、9-10月頃になります。この日、彼らは新しい出エジプトを確認したのであり、それは、神の大いなる恵みにさらに信頼する時でもありました。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.年の初めの招集

城壁が完成したのは、第六の月。そしてエズラを中心に律法を朗読するために、民が召集されたのは第七の月である。それはイスラエルにとっては、年の初めの月であり、第1日はラッパを吹き鳴らす日(レビ23:34)、10日は贖罪の日(レビ23:27)、15日から一週間は仮庵の祭り(レビ23:34)が行われる月である。

贖罪の日は、断食をし、全ての仕事をやめて完全な安息を守る日となる。民の一年間の罪が赦され、きよめられる日(レビ16章)であり、そのために民のすべての咎とそむきの罪を負うとされるアザゼルのやぎを荒野に放つ儀式が執り行われる。これは、大祭司イエスによる罪の贖いのわざの予型である。仮庵の祭りは、収穫祭とも呼ばれ(出エジプト23:16)、ユダヤ人の三大祭りの一つでもある。祭りの7日間、木々の大枝となつめやしの小枝からできた仮小屋に住むところからそう名付けられた(レビ23:42)。イスラエルのエジプトからの脱出を記念し、荒野における放浪と仮小屋での居住を記念するものである(レビ23:43)。実際には、7日間神殿でいけにえがささげられ,初日に13頭の雄牛、その他の動物、その後、雄牛は1日に1頭ずつ減らし、7日目には7頭、合計70頭の雄牛がささげられる(民数29:12-34)。そして8日目に荘厳な集会が持たれ、1頭の雄牛、1頭の雄羊、そして7頭の子羊が屠られた(民数29:35-36)。これは祭のクライマックスとなり、イエスが「祭りの終わりの大いなる日」(ヨハネ7:37)と呼んだもの、と考えられている。

大切なのは、この祭りが、農業的な収穫を祝う近隣の国々の祭りと微妙に重なり合いながら、イスラエルの歴史の始まりを主の豊かな恵みと罪の赦しの概念に基づかせているところにあるのだろう。だからそれは、単なる乱痴気騒ぎに終わらず、静かに神のみことばに耳を傾ける時とされた。

2.み言葉への応答

この日、エズラは、律法を朗読し、解説するために呼び出され、民の前で律法をはっきりと呼んで説明した。それは「夜明けから真昼まで」(3節)。律法の書というのは、具体的に創世記から申命記までの五書を指す。午前中で読み終わるとしたらその抜粋であったのだろう。民は律法の書に耳を傾け、読まれたことをはっきりと理解した。そして、朗読そのものが、主の礼拝を導いた。民は皆、「アーメン、アーメン」と応答し、地にひれ伏し主を礼拝したのである。まさに、みことばに応答し、主を崇め、主の権威の前にひれ伏すことが礼拝である。主を認めることが礼拝である。

さて、聖書は朗読され(7節)、説明された(8節)。おそらくそれは、ヘブル語から当時の言語であったアラム語に翻訳され、また解説されたのであろう。明解な解き明かしのもと、イスラエルの民は、神の前に自分たちの罪の歩みを覚えさせられた。しかしネヘミヤたちは、贖罪の日は、神の恵み深い赦しを覚える日であり、喜びの季節の幕開けなのだから、悲しみに終わらないようにと諭していく(9-11節)。聖書朗読において大切なのは、自分の罪や足りなさ、欠けを覚えさせられるところに止まらず、さらにそのような者が赦され、愛され、祝福に導かれていることを覚えることだ。信仰をもって、将来を望み見ることだろう。聖書を読み、自分を責めるような読み方ではなく、積極的に十字架の恵みを受け入れ、感謝と喜びをもってさらなる主の祝福を受ける気持ちで、神のことばを受け止め、神の誠実さに期待することが大切なのである。

3.第二の出エジプト

13節以降は、仮庵の祭りについての記録であるが、ネヘミヤはヨシュアの時代からこの日までそれが守られていなかったように書いているが(17節)、実際にはそうではない。ソロモンの時代にも(2歴代誌8:13)、ヒゼキヤの時代にも(2歴代誌31:3)それは守られている。ただしこれほどの喜びと感動を持って、新しい出発を期して行われたことは、イスラエルが約束の地に入った後の時代には、なかったほどのものだ、ということであろう。つまりそれは、第二の出エジプトであり、第二の解放だったのである。だからこそ実に感動的な礼拝となった。礼拝の中にもっと感動を、上から与えられる感動と祝福のある礼拝を、と思うのであれば、それは、まさに上からの深い恵みを覚える以外にはないものなのである。