ヨブ記2章

ヨブ2章 ヨブの信頼

<要約>

おはようございます。サタンが再度神に挑戦し、ヨブに罪を犯させようとする出来事が描かれます。しかし神に対するヨブの信頼はおろか、ヨブに対する神の信頼もまた明らかにされるのです。神を信頼すると同時に、神も私たちを信頼してくださっている。そのことを覚えて歩みたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.サタンの再挑戦

聖書はサタンの働きについて多くのことを語っている。サタンは、悪を企み、人々を欺こうとする(2コリント11:3)。人を虜にし(2テモテ2:26)、神のみこころから遠ざけようとする。ヨブがそうであったように、私たちの体に危害を加え、私たちの物を奪い、迫害を引き起こし(黙示録2:10)罪を犯させようとする(マタイ4:1)。またこの世を支配しようとし、神に代ろうとする(2コリント4:4)。神と神の子らに敵対する(エペソ6:10-13)。だから、サタンが最も喜ぶのは、神を攻撃し、告発することばであり、人が神をのろって自分の側に立つことである。そこでサタンは、ヨブの家庭を破壊して、ヨブが神をのろうことを期待した。しかし、そうはならなかった。

サタンはもともと神に創られたものであり、堕落した天使であると言われる(イザヤ14:12-15)。人間より長く生きている存在であるから、人間に勝る知恵と力を持っているが、神と違い全能ではない。すべてを神のように予測し、知りうる存在でもない。ヨブが、サタンの期待どおりの行動をとらなかったこと自体にサタンの能力の限界が示されている。サタンは鎖付の自由を持つと言われるゆえんである。だからサタンは、本来それほど恐れるべき存在でもない。

自分の挑戦の結果に満足できなかったサタンは、再度神に挑戦している。そして神はこれを許された。それは、神のヨブに対する信頼の深さを示している。だからヨブの骨と肉とを打っても、死なせることは許されなかった。サタンは鎖付きである。だから、自らの限界の中で、最大限の努力をし、ヨブから神をのろうことばを引き出そうとした。しかし、それでも、ヨブは自分の誠実を保ち、罪を犯すことはなかった。むしろサタンの攻撃に閉口したのはヨブの妻であった。ヨブの妻は、苦しんでいる夫の姿に耐えられなかったのである。「あなたは、これでもなお、自分の誠実さを堅く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい。」(9節)病者をケアする者に、理不尽な思いが突き上げてくることはあるものだろうし、それによって病者はますます試練にさらされることになる。しかし、ヨブの振舞は、サタンに隙を与えなかったのである。

2.サタンに勝利したヨブ

ヨブは苦しみにあって神に栄光を帰し、勝利を得ている。そこに勝利のイエスの姿を重ねることができる。実際、十字架に苦しめられたイエスが、神をのろって死ぬことがあってもよかった。しかしイエスは、神の御心に服し、自分に与えられた贖いの使命を果たした。イエスは、ご自身の生涯と死と復活をもって、サタンに勝利したのである。

私たちの人生は、良いことづくめばかりではない。良い時も悪い時もある。そして、悪い時には、たとえば人間関係や健康でも物事がうまくいかない時には、あれこれ後ろ向きに考えてしまうものだろう。クリスチャンならば、サタンにいたぶられている、と思うとことではないか。しかし、そんな時にこそ、頼りになるのは目に見えない神である。ヨブがそうであったように、また私たちの主がそうであったように、神によって勝利へと導いていただくことである。

3.友人たちの来訪

さて、ヨブの三人の友人がやってきた。彼らはヨブの出身地と同じ地方エドムの人々であったようだ。テマンは、具体的にどこかわからないが、エドムの一地方とされている。シュアハ人ビルダデは、東方の地に移動したアブラハムとケトラの息子シュアハに起源をもつとされる(創世25:1-6)、ナアマ人ツォファルについては、何も知ることはできない。

ともあれこの三人の友人たちは、ヨブの変わり果てた姿にヨブを見分けられなかったという。またヨブの傍らに立ち、七日七夜沈黙するありさまであった。彼らは、ヨブの悲しみを自分たちの悲しみとした。それは、これから起ころうとしているヨブとの対話が、深い友情から出ているものであることを予測させる。

人は人の深い悲しみに触れると沈黙せざるを得ない。役に立つことばも、慰めのことばもない、対処し得ない現実をただ思うばかりの時がある。しかしそのような悲しみのどん底から、神によって勝利に導かれることを、ヨブとイエスの姿に学ばなくてはならない。神を疑い、のろいたくなる状況の中でも、ぶれない信仰の歩みを導かれたいものである。神の子として、神の支配の中にあることをいつでも思い起こし、人間としての尊厳を保ちつつ歩ませていただきたい。神がちょうどよい時に、私たちにその恵みを注がれることを期待し、歩ませていただきたいものである。