ヨブ記3章

ヨブ記3章 ヨブの失意

<要約>

おはようございます。ヨブの疑問は、三つ。なぜ生まれた日があるのか(1節)。なぜ死んでしまわなかったのか(11節)、そして、なぜ苦しみながら生きなければならないのか(20節)でした。ヨブは、本当に死にたいわけではなくむしろ生きたいのです。そして苦しみから解放されたいのです。けれども、ヨブのことばは、実に重たく受け止めがたいものがあります。それは、人間ではない神のみにできること、と言えるのでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.生まれた日がなければよかった(3-10)

ヨブは、神をのろわなかった。しかし自分の生まれた日をのろった。「生まれた日は滅び失せよ。その日はやみになれ。…なぜ、私は胎から出たとき、死ななかったのか。…」実に悲しいことを言う。「神をのろって死になさい」と勧めた妻に対しては毅然として、信仰を崩さない姿勢を示したのに(2:10)、今やその雄姿も消え去り、全面的な混乱を口にするだけである。ヨブの苦しみに言葉も失った友人たちの前に、ついにヨブは、自分の心の闇を吐き出してしまう。

預言者エレミヤも、生まれた日をのろっている。彼は神のことばを預言したことで、打ちたたかれ、主の宮の門に足かせをかけられてつながれた。「私は労苦と苦悩に会うために、胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか」(エレミヤ20:18)。ただヨブは、エレミヤと違って、母を巻き込むことはなかった。ただその日を呪ったのである(エレミヤ15:10)。

8節、「レビヤタン」は、41:1以下にも登場してくるが、ウガリット神話に出てくる、水の怪物であるとされる。それは、特別な呪術を使える怪物であるから、「レビヤタンを呼び起こせる者」というのは、それにまさる支配と力を持った存在のことを言うのだろう。もちろんそのような実在を想定したというよりも、思いを語ったものなのだろう。ヨブのことばはエスカレートしていくが、それは、激しく傷ついた心の裏返しであった。

2.死産であればよかった(11-19)

だから次にエレミヤは、自分が死んで生まれればよかった。つまり自分の人生がなければよかった、と嘆く。というのも、死んだ者は、悪しき者も奴隷も皆、階級やその人生の良し悪しに関わらず休息している。前歴も付かない休憩を得たかったものだ、というわけだ(17-19節)。確かに、いかなる理由があるにせよ、こんな人生はもうたくさんだ、もう休みたいということはあるものだ。決して答えられることのない、「なぜ」という疑問に疲れ果ててしまうのだ。

神を信じていないわけではない。しかし、神に毒づきたい心を抱え、激しい気持ちのやり場のない時を過ごすことがある。こうして、「なぜ」や「のろい」を自分の日々の糧とするかのように、私たちは、やり直しのきかない過去に自分を閉じ込め、今の時を一層不幸に思うことがある。人間は、過去の記憶の中に生きているものであるが、どのような記憶に自分を縛り付けるかが問題である。その内容によっては、決して前に進めなくなるからである。ヨブは、栄華の極みから転落してしまった自分を嘆いた。そうであれば、栄華の極みなど経験しなければよかった。いや一層生まれなければよかった、死んで生まれていればよかった、というわけである。よくわかる理屈だが、そんな風に嘆いてもしょうがない、という面もある。大学病院で働いていた時のことであるが、人にもよるのだが、脳梗塞で片麻痺になると激しくそのことに傷ついて、立ち上がれない思いになってしまう人もいる、けれども、不思議なことに、2週間、3週間と時間が経ち、障害は残ってもある程度体調が落ち着いてくると、もうこの障害を受け入れて生きていくしかないな、と心が切り替わっていく人々が多かった。だが、心も体調もどん底であると、毒を吐く以外にない、ということはよく理解できることなのである。

3.この命になんの意味があるのか(20-26)

だからヨブは言う。「実に、私には食物の代わりに嘆きが来て、私のうめき声は水のようにあふれ出る」(24節)。生きていても何の意味もない、というわけである。ただ終わりを待ち望むだけである、と。詩篇の記者も「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした」(詩篇42:3)と詠んだように、苦い嘆きを心の中で反芻している時がある(ヨブ20:12)。しかし、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)とイエスが語ったように、そんな時にこそ、嘆きでも、うめきでも、涙でもなく、神のことばをこそ、私たちの唇に、心に注ぎ込まなくてはならない。苦々しく嘆きを反芻するのではなく、神のことばを繰り返し食んでいくのである。また人に訴え、自らの悲しみの棘に巻き込んでしまうのではなく、まことに魂を癒す神にこそ、問いかけていくのである。人は神のことばによって希望を持ち、神のことばによって生きる力を与えられるものなのだから。