ヨブ記11章

11章 ツォファルの言い分

<要約>

おはようございます。今日は鹿嶋に来ています。波崎キリスト教会にてメッセージ。神の恵み深さを共に、神のみことばから受ける時でありたいと思っております。実に、ツォファルの語ることを聞きながら、それが、決してヨブの満足するものではないとしても、そこには一つの明確な真理が語られています。偉大な神の前に、恐れつつ、神の御心に生きることを願う者でありたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の深さなどわかるはずがない

ナアマ人ツォファルが口を開く。ツォファルの言い分(2、3節)は、ビルダデ(8:2)とよく似ている。彼もヨブの激しいことばに、反論し難い思いを抱きつつ、それでも何とかヨブの問題を解決に導こうとしている。

ツォファルは言う。「あなたの無駄話は人を黙らせる」(3節)。弁舌巧みなヨブに、きっちり反論できる者はいない、もはや、神に語っていただく他はない、というわけである(5節)。ヨブ記の結論を先取りしている。エリファズは、自分の経験を根拠にヨブを説得しようとした。ビルダデは、普遍的な真理に訴えヨブに気づかせようとし、ツォファルは、このようなことは、語り合うことで解決するようなものではない、と悟りきった感じである。

「神は知恵の奥義をあなたに告げ、知性を倍にしてくださったであろう」つまり、ヨブが神について語るのをやめて、神がヨブについて語ってくださることに耳を傾けるなら、全く違うことになるだろう。そうだ、神が語ってくださって、神に対してそんな口の利き方をしてはならないことを、明らかにしてくださるのが、君のためだ、というわけである。しかも、ヨブよ、あなたは、神が心に秘められていたことを知った、と言うが(10:13、14)、そんなことがあろうか(7節)。神の御思いの何であるかを知るためには、天空高く上り、あるいは地の陰府深く下らなくてはならない(8節)。神の高さ、深さ、広さは、誰にも知りえないことであり、私たちはただその無知を告白するのみだろう。私たち人間は、ただ、そのはかり知れない神の意思の前に、黙して、神の採決を受け入れるのみなのだ(10節)。誰が神に抗議できようか。神は、正しいお方であり、誰が不真実であり、不法であるかを知っておられる。神の目には、全てが裸なのだから。12節、「無知な人間も賢くなるだろう。野ろばの子が人として生まれるのなら」、は言いたいことは、野生のろばの子のような、手に負えない分際でありながら、神の心を知るなどはなはだしではないか、ということだろう。

ヨブは三人の友の反感を買っている。議論に勝つつもりもなかっただろうが、彼は益々救いようのない事態に陥っている。ツォファルにしてもヨブを傷つけるつもりはなかったことだろうが、既に傷ついたヨブの心に深追いをする羽目になっている(12:4)。かつてバベルという映画があったが、互いに分かり合えない不幸というべきか、益々互いを傷つけあう部分があるものだ。まさにサタンのみがこれを喜び、快とするのである。

2.正しい者の祈りは祝される

後半ツォファルは、それでもヨブに光を与えようとしている。愚かで無力な人間にできることは、ただひたすら神のあわれみを求めることだ。手を頭上に掲げて、神に向かって、この悲惨な状況からの解放を求めることだ(13節)。ただ、不法があってはいけない、不正があってはいけない。もしそのようなものがあるなら、あなたの身辺からそれらを取り除いて、罪汚れない身となって、神に求めよ(14節)。そうすればあなたは確信をもって、神に語り掛けることができるだろう(15節)。そしてあなたの苦しみはいずこへと消えていき、再びあなたの人生に光が差し込み、朝露に潤う、晴れやかなものになるだろう(16節)。あなたの暗闇は真昼のようになるのだ(17節)。あなたはエリファズに、「私の日々は機の杼よりも早く、望みのないままに終わる」(7:6)と語ったが、そんなことはない。あなたは神からあらゆるよいものを期待できるし、確信を持つことができるだろう(18節)。あなたは「いくつもの夢で私をおののかせ、…おびえさせます」(7:14)と言ったが、もう大丈夫だ。神との関係も正され、人との関係も正されるのだから。むしろ、あなたは名誉ある関係を取り戻すのだ(19節)。しかし、不法と不正を住まわせている人間はそうはいかないのだ(20節)。彼らに望みはない。

ツォファルの指摘に教えられることは、私たちがいかに、神の前に遜らなくてはならないかであろう。確かに、私たちは野ろばの子のような者に過ぎない。愚かで、無知で、限界に満ちており、神の高さ、広さ、深さの一旦すらも理解できないような者である。けれども、キリストが仲裁者となり、私たちを神の子として扱ってくださっている、その素晴らしさがある。神の御前に謙遜に、恐れつつ、近付き、願い、また従う歩みをさせていただきたいところである。