ヨブ記27章

27章 私の場合は違う

<要約>

おはようございます。ヨブの弁論が続きます。大切なのは、ヨブがなぜこのように自らの正しさを主張しえたかです。ヨブが日々、神とのよき交わりを得ていた、その確信が、やはり、苦難にあり、友人たちの断罪にもかかわらず、自分の身の潔白さを主張させるものとなったのでしょう。世の中には、大変な濡れ衣を着せられる、あるいは罠に嵌められる状況に陥ることがあるものです。しかしたとえそのようなことがあっても、神とのよき交わりの日々に生きているなら、あなたはそこで深く支えられることでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.やはり私は正しいと言わざるを得ない(1-7節)。

「ヨブはさらに言い分を続けた」(1節)。ここには小休止があったのではないかと言われる。つまり、ヨブはツォファルが語り出すのを待ったが、語ろうとしなかったので、自分の言い分を再び述べたというわけである。しかも「言い分を続けた」という言い方は、中断したり、または横道にそれていたりした議論を元に戻す意味がある。そこで、ヨブは、本来の自分の主張を再び取り上げたことになる。

興味深いことは、ヨブにとって神の実在は動かしえず、神が自分の権利を取り去り、魂を苦しめた、と理解していることである(2節)。そして、ヨブは、「神の霊が私の鼻にある」(3節)という。つまり、自分が神につながっている者である、と。ヨブは単に自分が正しいと言っているわけではない。あくまでも神のいのちに生きる、神の子として生きている自分の無罪性を主張する。だから、ヨブは友人がほのめかすような罪は一切犯していないことを断言する(4節)。だから彼らの主張を正しいとするなど、到底受け入れられない、相談なのだ(5節)。

真っ直ぐ、神の命に生きているヨブの姿が印象的である。キリストが、自分に敵対する雰囲気が強まる中で、まっすぐエルサレムに顔を向けて、十字架へと進んだのは、ヨブと同じ、神の命に生きている確信であったのではないか、と思わされるところである。大切なのは、形ではない、祈り、教会に出席し、奉仕をする中で、神の命に日々生きているかどうかという部分である。それがあれば「私は息絶えるまで、自分の誠実さをこの身から離さない」(5b節)となるのだろう。

そしてキリストを信じる者にとっては、キリストにある潔白を離さないという確信は、決して譲れないものである。キリスト者は罪を犯さないわけではない。しかし、キリストにあって罪赦され、義とされ、神に受け入れられている、その事実を私は捨て去ることはできない、という信仰があるはずだからである。

2.あなた方の主張は全く通らない(8-12節)

だからそもそも、悪しき者は、このように神との直接な対決ができるわけがない。普段神を呼び求めていない彼に、神が顔を向けられるだろうか(9節)。普段、神を呼び求めて生きていない彼に、どんな会話が成り立つのだろうか(10節)。日々、神とよき時を生きていればこそ、この苦難にあって、彼は偽証をするのでもなく、神に真っすぐ、訴えることができる(11節)。不幸に陥ったからといって、神に助けを求めようとするなら、彼は、そのような厚かましい者をひどい目に合わせるだろう、というわけだ。しかし私はまだ生きている。まだ神の手の中にあり、神が私を生きながらえさせてくださっている、ということは、私が正しいことの証明でもある。あなたがたはそれをはっきり見ているのだから、もうこれ以上、空しいことを言うな、というわけである(12節)。

3.悪しき者は、何も残さない(13-23節)

13節以降、ヨブは悪人の結末について語る。この箇所は、基本的に友人たちが語ったことの繰り返しである。友人たちは、罪こそ全ての災いの源であると主張し、ヨブに隠された罪があるとほのめかした。今やヨブは、同じ主張を繰り返している。だから、これはヨブの主張というよりも、ツォファルの三度目のことばである、と考える者もいる。そうなれば、第三ラウンドで、沈黙したかのように見えるツォファルも、ここで他の友人たちと同じように三度目を語ったことになる。その場合は、ヨブが身の潔白を繰り返した事に対して、荒々しく言葉を遮り、断罪した、ということになるのだろう。

けれども既に述べたが、ヨブは、神は不正を犯すかのように見えながら、真実であるとしているのであるから、ここで、思い切って友人のことばが真実であることを認め、自分はそれ以上に同じことを確信しているが、自分の場合は違うのだ、と語っていることになる。つまり友人たちに向かい、私もあなたがたと同意見だ、100%同感だ、悪人は滅ぼされる、しかし、私の場合は違うのだ、私は悪人ではない、というわけである。

ヨブが問題にしているのは、神に義とされた罪人への神の取り扱いである。罪を認め神と和解し、平和の契約をしたにも関わらず、あたかも神が背を向けてしまうような状況に置かれることへの疑問である。神と人との関係が保障される仕組みが必要である。イエスの十字架は、まさにそのために求められ、歓迎されることになる。イエスの十字架の恵みがそこにある。