ヨブ記28章

28章 神の知恵

<要約>

おはようございます。人間は、素晴らしい貴金属を掘り当てる技術も知識も持ちながら、生きいる知恵を探し当てることができない、不自由さの中にあるものです。聖書は、結論っから言って、それが神に隠されているものであることを語ります。となれば私たちにとっては神を恐れ、神とよき時を過ごすことが、何よりもの知恵だと言うことができるでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

  1. 28章の位置づけについて

突然知恵がテーマとなる。どうも27章から28章へのつながりは、理解にしくい。内容もこれまでの荒々しさはなく、思弁的である。そこで学者の中には、この章は原作にないもので、後代の付加であったと考える者、元々あったとしても、これはヨブ記の著者の注釈的な挿入であるとする者もいる。聖書解釈の問題は、私たちの思考の枠組みで、時代も背景も違う場所で書かれたものを理解しようとすることだろう。私たちの思考の流れからすれば、逸脱としか思えないこの章であるが、著者には、著者自身の自然な思考の流れがあったはずである。一体そこにどんな思考の流れがあったのだろうか。

これまでこの章は独立の章であると言われることが多かった。しかし、これは、あくまでも友人との議論、第三ラウンドの中で起こってきている内容である。それでこれまでの議論を要約すれば、悪者は滅びると単純な物の言い方をするエリファズに対して、ヨブは、苦しみを受けているのは、悪者ではなく契約の民であるという重要なテーマに注目させている(23章)。次に、神の至高性を語り、人の卑しさを、強いては罪の悔い改めを迫るビルダデに対して、ヨブは、神の至高性の前に契約の民は遜るのみであることを語る(26章)。だから悪者は滅びるが、契約の民は滅びない(27章)、しかし、悪者にも契約の民にも、災いは起こる。神に見捨てられたと思える激しい災いにあって、どうしたらよいのか。知恵が必要なのだ、というのが28章であろう。

1.探し求める

そこで、どのように知恵は求められるのか。古くから人間は、貴金属を探し求める方法を知っていた。地中から銀を見つけ、純度の高い金を製錬する方法すら知っていた(1節)。鉄や銅など、武器を造る、貴重な金属を手に入れることすらできた(2節)。人は、坑道を縦横に堀、鉱石を探し出し(3節)、まったく人がこんな所に居ようとは思いも知らないところで、宙ぶらりんになりながら、それを掘り出すことすらする(4節)。地表では、野菜が収穫され、米が取れる。しかしその遥か下の地下においては、隠された貴金属が眠っているのである(5節)。人は深く掘り下げるが、どんな鳥も、獣も、獅子もそこまで下ることはない(8節)。彼は、堅い岩をも砕き(10節)、水が出ればそれを堰き止め、あらゆる努力をして貴重なものを手に入れようとする(11節)。

2.しかし貴重な知恵はなかなか見つからない

ところが、知恵はなかなか見つけられない。鉱脈のあるところを知っていれば、そこを掘り下げていくだけなのだが、知恵の鉱脈はそんなに簡単には見つからない(12節)。地中深くにも、深海の奥にもそれはあ見つけられない(14節)。しかもそれは、お金で買うこともできいないから、ますます難しい(15-19節)。

3.神はこれを隠しておられる

では、人間にとって必要不可欠な知恵、魂を救いうる知恵を見出すには、どうしたらよいのか(20節)。人は、死に直面するような自らの人生のどん詰まりの中で、そういったものがあるに違いない、と思うだけである(22節)。とすれば知恵はないのか、というとそうではない。神だけが、そのありかを知っており、語ることができる(23節)。実際、神は全てを見通しておられ、ご自分の知恵で、御し難い自然界の全てをとりおさえておられる(25-26節)。となれば、その知恵は、神を畏れることによって得られるのである(28節)。自分が回復したいから、救い出されたいからと神を恐れるのではなく、災いも神の計画の内と、神のみこころの深さを信頼し畏れていく。恐れ怪しむのではなく、むしろ神がこれを通して何を進めておられるのかを冷徹に見抜く心を持っていく、そこに、知恵の扉を開くのである。

ヨブは、前半で、高価な鉱石や宝石などの資源を探し当てる人間の努力について触れている(1-11節)。それは、それらが人間には容易であるが、容易ならざること、つまり知恵を探し当てることの難しさと対比するためである。知恵は神と共に、人からは遠い存在なのである。さらに、知恵はあまりにも高価でありお金で買えるようなものでもない。

確かに、世の中は、搾取を手放せば幸福が舞い戻ってくる、罪を悔改めれば人生は好転する、そんなに単純なものではない。杓子定規に公式を当てはめれば、人生はうまくいくようなものではない。それは、本当に上からの知恵によって導かれなくてならないものである。だから、たとえば災いを受けた時には、これを忍び、主の最善が私たちのものとなるまで、いかに知恵を働かせるかという課題が出てくる。主の知恵によって支えられる、主を恐れる歩みをさせていただきたいものである。