ヨブ記31章

31章 神ありて今の自分

<要約>

おはようございます。ヨブの最後のことばになります。ヨブは、古代の慣習に従ったのでしょう。自らの潔白を、「もし~」と言う、自己呪詛的なことばで主張します。しかしそれが、大事なことでもありました。というのも、ヨブの苦難は、ヨブのいかなる行為とも関係はなかった、というのは確かだからです。正しき者が苦難を受ける、それはまさにキリストの型というべきでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神は私の歩みの全てをカウントされておられる(1-4節)

ヨブの弁論がこの章で終わる。過去を懐かしみ、今の不幸を嘆いてきたヨブであるが、気を取り直したようにヨブは頑固に自分の身の潔白を主張している。しかも、1節、「私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留められるだろうか」とあるように、ヨブは、外面的な行為のみならず、心の動機にまでさかのぼって身の潔白を主張し始めているのである。そして神は、悪しき者の行いに報いられるが、私の場合は、神は、私の歩みをことごとく見定め、数えておられて、それでも、そのまなざしに耐えられる歩みであった、と言わんばかりである(4節)。

2.私は潔白だ(7-40節)

5節からは、「もし」を冒頭にする十種類の罪を問題とし、それぞれについて潔白が主張される。それは、古代イスラエルの一つの慣習に倣ったものなのかもしれない。というのも、サムエルも、王が立てられて、自らの引退に際して、潔白の誓いをしている。ヨブは自分の言葉をまとめるにあたり、友人たちが推測した不正な行為の告発に対して、自らの潔白を、イスラエルの完全数である10の誓いをもって、打ち消しているのである。ヨブは言う。私は偽らなかった(5-6節)、不正を働かなかった(7-8節)、心に情欲を抱いて女性を見たり、他人の妻を誘惑したことはなかった(9-12節)、奴隷たちの権利を踏みにじったことはなかった(13-14節)、弱者に対しては正しく親切であった(16-23節)、金も、天体も偶像として拝むことはなかった(24-28節)、人の不幸を喜んだことはない(29-31)、旅人に配慮を欠いたことはなかった(32節)、罪を告白せず、覆い隠すことなどなかった(33-34節)、小作人は正当に扱い、搾取したことはなかった(38-40節)と。自分の人生にそんなことがあったら、しかるべき罰を受けてもよいのだ、私は潔白だ、というわけである。彼は、実に全き義しさの中に生きたのである。それが彼の誇りでもあったし、彼のより所でもあった。

メシヤ預言的な観点から、これを読んでいくならば、ここでは、罪を犯したことのない完全ないけにである神の小羊イエスが、いかに聖い生涯を歩んだのかを考えさせられるところではないだろうか。その生涯の聖さがあればこそ、神の業も現され、十字架の贖いも完成しえたのである。

神の業をもたらすものは、やはりその生涯の聖さ以外の何物でもない。神の業が現されることを願うのならば、また十字架の業が成し遂げられることを願うのならば、まさに、「私のあゆみをことごとく数えられる」(4節)神の前に歩む一日一日が必要なのである。

だが、全き完全さを目指しながらも、完全にはなりえない私たちの現実がある。私たちの完全さは、神の赦しと支えがあればこそであって、ヨブが語るように、誰一人自らが完全でありうることはない。ニコデモが、新しく生まれなければ、とイエスに教えられたように、私たちの完全さは、自分の不完全さを理解することが初めであって、そこにキリストの十字架の救いを抱いてこそ、ありうることなのである。神の助けとあわれみに感謝し、神の与えられる義をこそよしとして生きていくところに人間の正しさがある。自分の業にふんぞり返ることなく、神の業に期待し、信頼して生きていく。人間はどうしても自分を肥大化させてしまうものだ。神の前に小さなものである自分自身を正しく見つめ、神あっての自分であることを意識した歩みを心がけたいところである。