ヨブ記39章

39章 神の配慮

<要約>

おはようございます。台風の被害様々であったと思いますが、続けて敏速、適切な手立てが進められますように祈ります。さて、神の偉大さを語る、ヨブ記39章、考えてみると、神の存在は幸なのか、不幸なのか、わからなくなるようなところもあります。しかし、人間の合理的判断とは違う、神の思考で考えてみれば、どんなものも大切な存在であると言うことができるようにも思います。自己肥大化することへの警鐘を読み取るべきで、それ以上の読み込みは控えることも必要でしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.人間には不合理な存在であっても、神はこれを喜びとする(39:1-12)

野生動物の生態が語られる。それは、家畜と違い、自由奔放で力強い。しかし、その誕生から自立に至るまで、神が関わっておられる。神の配慮があり、世話があり、守りがある、という。神は言う。ヨブよ、あなたは野やぎが子を産む時期を知っていても、その時がいつかは正確にはわからないだろう(1節)。野やぎの妊娠期間も、野やぎが子を産む時も言い当てることはできないだろう(2節)。彼らは、人間の助けもなしに、子を産み(3節)、子は、すぐに強くなり、育って、親を必要としなくなり、自立していく(4節)。

野ろばもそうだ。野ろばは、人間とは無関係に、荒れ地で生息している。わたしがそのように定めたのだ(5、6節)。彼らは、人間の目には無駄な存在かもしれない。人間社会と切り離しても構わない存在だろう(7節)。だから人間は、そのような動物が人間社会に降りてきて危害を加えたり、繁殖し過ぎたりして、人間社会に脅威をもたらすならば、これをまるでもののように殺傷処分するのだ。しかし、ヨブよ、私が創造したものの価値は、何でも、人間の利益に作用するものでなければならないのか。

野牛は、力強いが、これを飼いならして、耕作や運搬に活用することはまず難しい(9,10節)。しかし、飼いならせたら、なんと頼もしいだろう。このような野牛は、家畜牛よりも馬力があるからだ。しかしそうはならない。あなたはその馬力を口惜しく見るだけだ。だからあなたにとっては何の価値もないし、不要なものだ、と見るしかないだろう。けれども、私にはそうではない。私はこの野牛の価値を認め、野牛を喜んでいる。そして養っているのだ。

考えてみれば、なぜに神は、そのような無駄と思われるものを造られたのか、不明である。神の思考は人間の思考とは大いに違うと言う他はない。そのような意味では、私たちの世界には、私たちの尺度からすれば全く無駄だ、と思われて、切り捨ててきたものは多くあるだろう。人間は人間の間にも優劣をつけて、そのように切り捨ててしまうことがある。しかし真の神の人は、神の思考に生きる人は、そのように無駄だと見なすものはない。何かしら、その存在の有用性、本来生まれ出た意義を、神と共に見つけていくものだろう。

2.ダチョウの暮らしがわかるか(39:13-18)

そのような意味では、だちょうの存在も不思議なものだ。だちょうは羽があっても、それで羽毛が取れるわけでも、飛べるわけでもない(13節)。また、卵を産んでも産みっぱなしで孵化させる知恵がない(14-16節)。ただ、だちょうがいざ、走りだせば、どんな駿馬も、どんな優れた騎手も、これに勝つことはできない。人間の目から見ればこれほど無意味な習性はないし、種の保存が維持されることも不思議だ。しかし、これも神のなさったこと、というわけである。

3.馬や鷲の習性を形作ったのは誰か(39:19-25)

そこでヨブよ、馬についても考えてみよ。人間は、馬を飼いならし、これを軍馬にする。しかし、軍馬としての性質を備えたのは、私だ(19節)。馬は、いざ走りだせば、人が抜き放った刀の閃きを恐れることなく突進していく(22節)。彼らはその勢いで敵を怯えさせ、瞬く間に蹴散らし、責め立てる。こうした習性を、人間が馬に与えることができるのか。人間が手塩にかけて、向こう見ずな突進をやって遂げる馬に仕立てることができるのか。そうではない。人間にそのような開発能力はない。寒い季節になると、渡り鳥は南に向かって飛んでいくが、鷹の一種も同じである。それはあなたが定めたことか(26節)。鷲が、人の近づきにくい高いところに巣を作るのは、あなたが命じたためか(27節)。鷲は、鋭い目で、遠くから獲物を狙い(29節)、死骸が横たわっていれば降下し、その血の滴る肉を食いちぎり、これを雛に与えるのである(30節)。

ヨブよ、あなたにこんな馬や鷲を造ることができるのか、というわけだ。

そのようにして神がなさったことである、とあらゆる世の事象を見ていくならば、自分の身に起こる一つ一つの事柄について、慌てずに、神の深いみこころを静かに探ることを求めるようになるだろう。無駄なように見えることも、単に、自分が所属する社会の画一的な思考に支配されているだけのことで、その考え方から自由になってみれば、別の意義を感じることもできるだろう。

実際、私は世界の創造者であるが、これを造りった時に、それをよしとした。決して無意味なものは何一つ造らなかった。だから自然の生態系に不可思議なことが多いとしても、そこには、何らかの私の目的があると見るべきなのだ。

そういう意味では、イエスも同じように語られた。「父のお許しなしには地に落ちることはない」(マタイ10:29-30)と父が雀に配慮し、養ってくださっていることを語った(マタイ6:25-27)。さらに、イエスは、植物に目を向け、神がこれを創造させたのみならず、神がこれを装ってくださっている、と語る。イスラエル人にとって野の花は、日々の食糧のために、燃料とされてしまうものであったし、わずかな一日の命に過ぎないものであったが、神がこれを着飾ってくださるのだという。そして、私たちはその雀よりも、また野の花よりも、神の目にはすぐれた存在であるから、思い煩うなと語る。

神が知恵をもって、野の獣を造り、住みかを与え、習性を与えられた。それは、神の知恵の業であるのみならず、愛の業でもある。私たちは神の目には小さなものである。しかしその小さな者のために神がなしてくださっている大きな配慮がある。