ヨブ記40章

40章 河馬も人間に並ぶ神の傑作だ

<要約>

おはようございます。神の応答に耳を傾けて教えられるのは、世の中が自分中心に動いているわけではないこと、さらに、人間中心にこの世界や物事が成り立っているわけではないことでしょう。神にとっては被造物全体が、視野にあるのですが、私たちはほんのその一部、自分と自分の周囲が問題なのです。だからといって、神は小さな器を粗末にされるお方ではありません。自己肥大化の愚かさから守られると同時に、神の愛への深い信頼を学ばせられるところではないでしょうか。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の前に口をつぐむヨブ(40:1-5)

神はヨブを「非難する者」(1節)、つまり「あら捜し屋」と呼ぶ。ヨブは、神に難癖をつけているのである。ヨブは気づいた。「ああ、私は取るに足りない者です」(2節)ヨブは自分が本当に、地の塵から造られたに過ぎない者、全能者の前には無に等しく、対等に語ることのできない者であることを悟らされていく。そして神が親しく語ってくださることに、ヨブは、恐れをなし、口をつぐんでいる。この世の中には、38章、39章で述べられているように、実に、人間にとっては全く利益をもたらすことのない、ミステリーに満ちたものが多いものだ。神は、人間には理解できないものをもお悦びになって、それらを養い守っている。神は人間を万物の尺度にはしておられないのである。神は神ご自身の尺度をもって、この世界を作り、この世界を保持しておられる。

2.ヨブに向かい語られる神(40:6-14)

そのようなヨブに、さらに神は語る。4節以降は、後代の付加と見られることがあるが、そのように受け止める必要もないだろう。神は言う。「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ」(6節)と。神は、ヨブに真正面から語ろうとする。ヨブにとっての関心は、神の契約の民である自分の義がどうなるか、という部分であった。神の契約の民は、特別に扱われるべきである(詩編4:3)。しかし、契約を無にするような扱いを受けるのはなぜか、ということである。だが、そのことに拘れば拘るほど、神を逆に罪に定める結果となる(8節)。神の決定に異議を唱え、神を不法者としてしまう結果となる。

そこで神は言う。ならば私を超えて、私の裁きを覆す、決定をしてみよ(10節)。神の裁判の座について、悪を行う者どもに、怒りをまき散らし(10節)、実際に、悪者を一息に蹴散らし、彼らを滅ぼしつくせ(12節)。彼らを豪奢な墓石で飾りたてることを許さず、土に葬り去り、死者の国に閉じ込めたらよい(13節)。あなたにそれができたら、わたしは、あなたを私の決定を覆す、私を凌ぐものとして認めてやろう。あなたはあなた自身の力で勝利したのだ、と。

3.河馬も人間に並ぶ神の傑作である(40:15-24)

ただ聖書の神は養育的である。ヨブの高慢の鼻をへし折ろうというのではない。神は、ヨブにとことん付き合って、言葉を尽くして語ろうとする。一喝して終わりではない。

さあ、創造の世界を広く見よ。それらの全てが、現代の人間の尺度で測られるように作られているのか。そうではない。人間が河馬と呼んでいる、あの獣をみよ。あれは、私が人間と一緒に造ったもの(15節)。けれども、それは、あなたのために造られた、と言えるだろうか。彼らは獅子のように肉を食らわず、草を食べて生きるものたちであるが、かといって、人間の家畜にもなるような存在ではない(15節)。しかし見よ、彼らの力強さを、彼らは、あなたがたには価値のない背景の装飾の一つに過ぎないかもしれないが、私は彼らを喜んでいる(16節)。人間に、あのような生き物を造ることができるか(17-19節)。あの堂々とした体格、垂れ下がった尾、頑丈な骨格、どれをとってもそれは神の傑作であり、創造力の証しである。その命を握る者は、この私である(17-19節)。彼らは、静かに草を食み、山のもたらした産物を楽しんでおり、野の獣も、彼らの周りで平和に暮らしている(20節)。彼らは、いつもは、沼地の水の中にのんびりと時を過ごしている(21-22節)。そして、たとえ激しい雨が降り注いで、その口に注ぎ込むほどに、ヨルダン川が溢れても、他の動物たちと違って、慌てない(23節)。目と鼻だけ突き出して動じない。あなたは、この河馬を捕まえることができるのか。

神は時間をかけて、ゆっくりと語られていく。この対話はどのくらい時間がかかったのか、と思うところである。ヨブは素直に耳を傾け、神は一言一言、ヨブの心のひだに触れるように、ヨブの心に理解が染み渡るように語っているところではないだろうか。神はこのようなお方なのか、と改めて感動するところでもある。

私たちは本来神の目には塵に等しい、虫けらの存在である。そしてこの創造の世界は人間中心には仕上げられてはいない。神の創造の世界である。しかしたとえそうであっても、神はいかなる人間も粗末にはされない。イエスの十字架の死は、神がご自分の魂と人間の魂を等しいものとされた行為に他ならず、その十字架の血潮によって、私たちに対する愛を明らかにしておられる。そのような神であればこそ、今の苦難を神に委ねる勇気を与えられるのである。神に苦に感じている事柄の行方を任せてみよう。神がどうなさるのか。自分の義を主張することを止めて、神の義がどのように現されるのかを見守り、神が何を教えようとされているのかを考えてみよう。

キリスト教信仰はご利益ではないのだ。物事が順調にいけばよし、しかし物事がうまくいかなくなれば、神につぶやき、神に難癖をつけるのであれば、結局自分中心に物事を考えていくご利益信仰と変わりはない。自分にとって不本意なことが起こっても、神のご計画の中で、なおも、この小さき者に対する神の配慮と最善があることを信じて自身の人生を委ねていくのが、まことの信仰である。いついかなる時も、神を神として崇め、神に栄光を帰すことなのだ。