ルカの福音書8章

ルカの福音書8章 種まきのたとえと四つの奇跡

1節、「イエスは町や村を巡って、神の国を説き」とある。おそらく、イエスに対する敵対意識が高まり、イエスはもはや会堂では教えることができず、どうやら、戸外でそこかしこに集まる人々に宣教をするようになったのだろう。イエスは聴衆に不自由することはなかった。しかし、イエスの関心は聴衆を集めることではなく、奥義を伝授する、神の民を養い育てることであった。だから、教えと業を通して、側に仕える弟子たちに神の民のマインドを教えようとしている。

8章の前半は教え、後半は奇跡の物語である。教えは、よく知られた種まきのたとえ。イエスに従う者を四種類の土地に蒔かれた種の成長にたとえている。確かに、神のみことばに対する聞き方も様々である。聞いても注意を払わない人(道ばたの者たち)、みことばを喜んで受け入れても、それを深めようとしない人(岩の上の者たち)、世的な関心が強すぎて結局霊的な実を結べないでいる人((いばらの中に落ちた者たち)、そして、神のみことばに正しい反応を重ねて実を結ぶ人(良い地に落ちた者たち)がいる。聖書を読むだけ、あるいは、礼拝説教を聞くだけの生活ではだめで、聞いた神のことばと共に生きる、つまり、神のことばに信頼し、忍耐をもって実を結ぶ努力をし続けていくことが大切なのである。聖書を同じように読んでいながら、信仰生活に差が生じるのは、そういう問題であろう。聖書を律法主義的に読むように努力することと、喜びを持って、神との関係を深めようと努力することは、ある意味で紙一重である。それは全く異なるものであるが、その違いが分からない人は多い。また教会は、そのように、神のみことばに真摯に取り組む霊的な絆を持った者の集まりである。神のことばによって一瞬一瞬支えられている者たちが、共に生きている、それが神の家族と呼ぶにふさわしい。まさに「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです」(21節)というように。ルカが、他の福音書記者と異なり、このイエスの家族のエピソードを、種まきのたとえの後に置いたのは、そんな意図を持ってだったのかもしれない。

さて、神の力を味わい知る、四つの奇跡が続けて語られている。嵐を沈め、悪霊を追い出し、長血を患っていた女を癒やし、ヤイロの娘を生き返らせている。死人をよみがえらせ、病気を癒す奇跡。すでにルカは4、5章、7章にも奇跡を書き記してきている。しかしその書き方には多少の変化がある。4、5章、7章、そして8章へと進むにつれ、イエスは大勢の前から、少数の弟子たちの前へと奇跡を起こす場所を絞っている。イエスは、身近な者を訓練することに集中した。先にも書いたが、イエスの関心は聴衆を集めることではなく、弟子を育てることにあったのである。

最初の奇跡は、イエスが自然を支配する神の子であることを示している(25節)。そしてイエスの奇跡は、嵐を静めたが、実際には弟子の心を静めている。私たちもイエスが、私たちの波立つ心を静められる方であることを知らなくてはならない。神と共に歩む時に、私たちは、私たちに関わる神を味わい知るようになる。試練は、信仰を成長させる時である。宗教改革者のマルチン・ルターは、祈りと試練が神学者を作ると語った。

次に、悪霊つきの男の癒やし。この男は、悪霊に取り付かれ、自分と悪霊の区別もつかぬほどに自分を失い、狂わされた人生を生きていた。彼は「墓場に住んでいた」と言うが、興味深いのは、この奇跡を見た町の人々の対応である。彼らは、この狂った男が正気に返ったことを喜ぶのではなく、恐れを抱いている。彼らは、正しいことがなされても、喜ぶことがなかった。現状維持がよかったと言わんばかりである。しかしそのような心こそ、神の奇跡を遠ざけている。神は偉大なことをなさるお方である。変化を恐れてはいけない。

12年の長血をわずらった女は、そんな変化を自ら求めた人の話である。イエスはこの女の信仰を見逃されなかった。大切な点である。どんなに小さな者であれ、信仰によって近づく者を神は見逃すことはない。大切なのは、神に近づく者に、神は報いられるお方であることを信じることだ。しかもその信仰は可能性に基づくものではない。望み得ない時にこそ望みを抱くものである。ヤイロの娘の物語がそれを伝えている。もう、必要がない、もう来ていただいても無駄であるという状況の中でイエスは奇跡をおこなわれた。神に遅すぎることはない。人には、墓場に縛り付けられるような、生きる望みを失う状況に置かれることはあるだろう。しかしどんな時も嵐と悪霊と死と病に力を及ぼされ、回復される神を覚えたいものである。いつでも神に望みを抱いて歩ませていただきたいものである。

 

 

詩篇16篇

16篇 成熟した信仰

<要約>

おはようございます。ダビデの経験を歌にしているようでありながら、キリストの十字架においてこそ、完全にその意味を理解することのできるメシヤ詩篇の一つです。メシヤであるキリストを思い、そのキリストの足跡に従う、信仰者の歩みを進ませていただきたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

「ダビデのミクタム」とある。ミクタムという言葉については、「苦しめられている」「攻撃を受けている」「金の」「隠されている」など様々な意味が推測されており、よくわかっていない。この詩篇は、サウル王による迫害(1サムエル26:19)を背景として書かれたと考えられているが、初代の教会では、使徒2:25-28、13:35に引用しているように、キリストの十字架の死と復活を預言する、メシヤ預言として受け止められていた。

そのような背景から考えるなら、この詩篇は、最も厳しい状況においていよいよ明らかにされるべき信仰の本質的なものを語るもの、と言うことができるのかもしれない。その要点は何か。

2.信仰の要点

第一に、ダビデは、「私の幸いはあなたのほかにはありません」と、神を自分のすべてであると認めている。私たちの心は、どこに向かっているのであろうか(1,2節)。神が自分の安心となり(1節)、幸いとなる(2節)。これが信仰者を信仰者として証しする、しるしというべきものだ。神ではない具体的なもの、つまり人のつながりやお金のあるなしに安心感を見い出すのではない、そのようなものを備えてくださる神にこそ安心感を見出せることである。

第二に、ダビデは、まことの神を求める敬虔な者たちとの交わりにこそ、喜びを見出している(3節)。4節との対比で言えば、偽りの神々を求め、偶像崇拝する者たちとの分離が、まことの信仰者を証しするものと言えるのだろう。ただ、今日的な問題は、同じ神に礼拝をささげる、賛美をし祈りをささげる、その形こそ似てはいても、本当のところ、内的な面で、何か違いを感じる人たちがいたりすることだろう。信仰の軸がどうも人間的なところにある人と、聖書にしっかり立とうとしている人の違いを感じたりすることがあるものだ。キリスト教信仰をしているといっても、実際、その中身は様々である。「心から神を畏れ、敬う人々の仲間に加わりたい」、そのような思いは、真の信仰者のしるしというべきものだ。

新改訳と新共同訳では、二行詩、三行詩の解釈の違いがあるようだ。5、6節の間を分ける新改訳と、分けない新共同訳の違いがあるように思う。だが、意味的には、5、6にはまとまりを感じるところがある。それは、第三に、信仰者が何を所有しているのか、を考えさせる。信仰者は、しばしば何も所有しない者であるかもしれない。この世的に見れば貧しい者であり、根無し草と思われるようなものかもしれない。しかし、神を所有しているのである(5節)。かつてイスラエル人が、約束の地カナンの土地に入植した際に、部族ごとに土地分割が行われた。その際、レビ族は相続地を与えられず、神ご自身を分け前とされた。彼らは、主に仕える者であるから、地上的なものではなく、霊的な分け前があるとされたのである。「測り綱は、私の好む所に落ちた」測り綱によって測り出された土地の分け前は、まさに自分が望むとおりのものであった。つまり、神が私にとっての最高の相続財産であるし、最高の分け前である、ということである。

だがそれが何になるのだろうか、と思う人もいるだろう。パウロは祈る。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように」(エペソ1:18、19)。神を嗣業とする素晴らしさを、私たちはいよいよ悟らねばならないし、それを誇りにする、その内的確信こそが、信仰者を信仰者として証しさせることになるのである。

3.信仰の喜び

そうなれば、自然に、神をほめたたえる心が与えられるのであるし、神の助言は私を生かし(7節)、神ある故に私はゆるがされない(8節)となるだろう。神と共にある事それ自体に最高の喜びを見出すのである。信仰を持ったら、神がかり的になり、人は自由を失うということはない。信仰をもったら、何かの戒律に縛られて、窮屈な人生を生きるということもない。

むしろ、神は私たちに選び取るべき幸いの道を示し、助言し、自分自ら何をすべきかを悟る、と言うことが起こる(7節)。そして、今この現在のみならず、未来に対する確信を持つこともできる(9節)。信仰者には確かなるいのちの道がある、神は、私たちを死人の中に置き去りにすることも、私たちが墓の中で朽ち果てることも許されない。神は命の神である。神は私たちを生かし、私たちに光を与えられる、という確信だ。うむ、私はそこまではいけない、と思うことがあるかもしれない。だが、この未来の確信を初代教会の使徒たちは、メシヤ預言として引用した。この詩篇がキリストの十字架の死と復活を意味するものとして理解した。聖書をキリスト中心的に解釈する一例である。ダビデは、サウルに命を狙われる中で、象徴的に自分の復活を確信したのかもしれない。しかし、その完全な意味は、キリストにおいて理解されるのである。確かに、「あなたの御前には」「あなたの右には」という下り、真にこう語りうるのはキリスト以外にない。信仰の模範はまさにキリストにあり、キリストに従うことが全てである。今日もキリストの弟子として練られ整えられることを願うこととしよう。