詩篇29篇

29篇 神の祝福が力強く下る

<要約>

おはようございます。神を信じるというのは、観念的なこと精神的なことではなく、実際的なこと、人生を左右することです。私たちの人生が信仰によって変わらないのなら、そのような信仰は受け入れる価値がありません。まことに神を信じ、神に従う、その中で神の命に満たされる。その祝福に与りたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

パレスチナの地理は、地中海沿岸の海岸平野、それに続く中央高地、ヨルダン渓谷、東部の台地という四つの地域が平行して並んでいると理解すると覚えやすい。6節に出てくるレバノン、いわゆるレバノン山は、中央高地の北側に位置する。シルヨンはヘルモン山のことで、標高1,850mのレバノン山をはるかにしのぐ2,814mの山である。これは東部の台地の北側に位置する。つまり、地理的に、北側の代表的なレバノン山、ヘルモン山の高地が舞台となっている。

しかし8節のカデシュはどこだろうか?二説ある。南側のツィンの荒野に位置するカデシュ・バルネアと考えれば、ここはイスラエルの北の端から南の端まで神の力が覆っていることを語ろうとしたものだろう。もう一つは、北側にある、レバノン山とヘルモン山の間から発するオロンテス川沿いにある要塞の町カデシュが考えられる。

そこであくまでも想像となるのだが、この詩を詠んだ時ダビデは、カデシュの要塞にいたのかもしれない。そこで地中海方面から次第に近づき(3節)、レバノン山(6節)にとどろき、カデシュを通り過ぎて、ヘルモン山(6節)へと抜けていく炸裂するような雷鳴にさらされたのだろう。あるいはその雷は、はるか南のカデシュ・バルネア(8節)に至ると思われるほどに、レバノン杉をなぎ倒し、焼き尽くし、破壊した、その様子をちょうど目撃したのかもしれない。どのような光景をダビデは見ていたのかは、推測するまでであるが、ダビデは、轟音とともに地上を破壊していく雷の威力に、力強い神の臨在と栄光を思いめぐらしていたのだろう。

2.神の力は我が人生にも現わされる

七十人訳聖書では、この詩篇の表題に、レビ記23:36の翻訳を思わせるものを付け加え、荒野を通り抜けた旅を記念する仮庵の祭で用いられたものであることを示している。しかし、タルムードでは、五旬節の祝いの日に読まれる詩篇とされており、初代教会においても、そのように用いられたと考えられている。それは実際、キリスト教的には、五旬節の日に、火と力強い風と主の声が同時に起こったことを想起させる(使徒2:1-4)。

つまり神を信じる時に、目に見える決定的な変化が自然のみならず人の人生にも起こりうるのだ。家庭の中に、職場の中に「大森林を裸にする」ようなことが起こる(9節)。神は力強い。私の問題については「決して不可能だ、このことに限ってそういうことはない」と、諦めてしまっては、信仰も何もない。

改めて信仰とは何かを考えるところであるが、イエスは、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です(ヨハネ15:5)。」と言われた。その意味するところは、ぶどうの木も枝もつながっているものであり、運命共同体だということだ。信じる、つまりイエスにつながるということは、私たちはイエスと運命を共にするのだが、イエスも私たちと運命を共にするのである。信じるということは、観念的なこと、精神的なことではない。それは、実際的なこと、私たちのいのち、人生を左右することなのである。

大切なのは、神を神として正しく認識することだ。そして神の栄光を心から仰ぐことである(9節)。そうであればこそ、人は、地に対する神の正しい裁きを確信することができる(10節)。実際ここで用いられた「大洪水」ということばは、他にノアの洪水の箇所(創世記6-11章)のみに見られるものである。つまり、自然の諸力は、単なる破壊、神の力のみせしめではなく、目的を持って現されることを意味している。だからヘブル語の接頭前置詞「レ」は、直訳すれば「主は、洪水に座しておられる」であるが、主は、大洪水を支配される、という程度の意味にとるのがよいのではないか、と私は思う。神がそのように、目的を持ってご自身の威力を現し、それが人に対する愛の動機の故にそうなされることを覚えるならば、全ての事柄において平安を抱くことができる。「主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される」(11節)ダビデは確信をもって語る。神がその激しい力を持って、私たちに加勢してくださることを、信じる、そして勝利をつかむまで諦めない、そこに祝福も力強くくだされるのである。