詩篇30篇

30篇 嘆きは踊りに変わる

<要約>

おはようございます。嘆きは踊りに変わる、これは、万人の確信たるべきものです。神のあわれみにふさわしくない者はいません。呼び求めずして神のあわれみを受けることもできません。自分には、神と交換する物など何もない、と思う人ほど、神のあわれみを受けることに真剣にならなくてはなりません。それが嘆きが踊りに変わる秘訣です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

「家をささげる歌」とある。実際に二つの背景が考えられている。一つは、ダビデがサタンに惑わされて人口調査の罪を犯した時のこと(1歴代誌21章)、神は怒り、イスラエルに疫病がくだされた。ダビデが、罪を犯したのは自分である、と神に訴えると、神は、その罪のつぐないのために、エブス人オルナンの土地に祭壇を築くように命じた。ダビデが祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげたところ、神は天から火を下して応えられている。その際にダビデは言う。「これこそ、神である主の宮だ。これこそイスラエルの全焼のささげ物の祭壇だ」(1歴代誌22:1)。ここでダビデが「神である主の宮だ」と語った原語は、バイト、通常「家」と訳されることばである。詩篇30篇の表題の「家をささげる歌」は、直訳であるが、人口調査が背景だとするならば、口語訳のように「宮をささげる時にうたったダビデの歌」、あるいは新共同訳のように「賛歌。神殿奉献の歌」となるのだろう。

そして二つ目に、これは、サウルの死後、ダビデが指導的立場に立ったものの、ペリシテ人の勢いが強くその侵略がエルサレムに達し、宮殿に入ることができなかった時に歌われた、という説がある(2サムエル記23:13-17)。となれば新改訳のように「家」という訳でも違和感はない。

ただこの詩は、2節「私が叫び求めるとあなたは私を癒してくださいました」と何か致命的な死の危機から脱出した経験に基づいて詠まれている。しかもそのような状況に陥ったのは、6節、「私は決して揺るがされない」と語られているようにダビデが栄えた時に、高慢になったためである。とすれば、この詩は1歴代誌の人口調査の罪を背景としているのかもしれないし、あるいは、三つ目の背景として、ダビデがただ高慢のゆえに身体的に弱められ、死の床にあった時と考えることもできるだろう。となれば、種々の可能性を秘めて、直訳で訳出した方が、よい、ということにもなる。

2.嘆きを踊りに変える

詩の構造も内容も単純である。まずダビデは、率直に神の恵みに感謝している。「まことに御怒りはつかの間。いのちは恩寵のうちにある」神の怒りは、いつまでもだらだらと続いたりはしない。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」(5節)の「宿って」は、一夜どまりの客を意味している。つまり「夕べに涙が一夜の宿を求めて到着しても」という意味になる。神は怒っても、いつまでも怒り続けることはない。夜の後には必ず朝がくるように、神は闇のままに終わらせることはない。ダビデはそのような正しい神を信頼し、死の滅びの淵から助け出してくださるように、祈り求めたのである。

ダビデは言う「私が墓に下っても、私の血に何の益があるでしょうか」(9節)。確かに塵芥のような人間が死んだら、ただそれだけだろう。しかし、もし、神がそのような人を救ったとなれば、神は恵み深いお方として褒め称えられることだろう。情けをかけるに足りない存在の者に、神は関わってくださるのだ。すると神は、その祈りに応えて、嘆きを踊りに代え、喜びを着せてくださった、という。そこで、ダビデは神に深い感謝をもって、神の憐み深さと恵み深さを讃えるのである。

人口調査の時なのか、あるいは、ペリシテの侵略の時なのか、いや、聖書には綴られない、ダビデが病にかかり、ダビデの運命が嘲られる状況にあった窮地を背景としているのか、わからないが、大切なのは、神が、たとえ高慢になって失敗することがあっても、神が心からの悔い改めと祈りに応えて、ダビデのいじましい面目を保たせてくださった、ということだろう。人間というのは、本当に勝手なものであるし、その自己中心性は病としか言いようがない。しかしたとえそうであっても、神は、神を恐れ、悔いるたましいを捨て置かれることはない、というダビデの経験に教えられる。しばしば人は、心弱くなり、こんな自分の祈りを神は聞いてくださるだろうかと思うものだ。自分の厚かましさ、愚かさ、変わりようのなさ、不誠実さに深く心責められ、こんな自分に神のあわれみがあるだろうか、と思うものだろう。けれども、あわれみというのは、それらを与えることがふさわしくない者に与えられるものをいう。ふさわしい者に与えられるものは報酬というべきだ。だから、あわれみ深い神であるからこそ、恐れつつ、ただひたすらその憐み深さに飛び込み、諦めずに願い祈ることだろう。神はあなたを立たせてくださる。