詩篇31篇

31篇 心を強めてくださる

<要約>

おはようございます。人の世というのは実に不思議なもので、全く誰を信じてよいのかわからぬようなことが起こったりするものです。そのような時に、日本人はイスラエル人と違って心を支える精神的遺産や教育を持たない、実に貧しい国民であるように思います。イスラエル人は神の誠実さに期待し、そこに立つように幼少から教えられてきているのであり、それは実に大切な精神的遺産を持った国民であると言わなくてはなりません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

恐らくダビデがサウルから逃れ、マオンの荒野にいた時(1サムエル23:24)に作られた者と考えられている。イエスも、十字架の苦しみの中で5節「私の霊をあなたの御手にゆだねます」を引用して最後のことばとされたが、敵に囲まれ、追いつめられた時に読む詩篇である。

ダビデは、敵が自分に何をしたかを振り返っている。敵は、失脚を狙ってひそかに網を張った。まんまとその網にひっかかってしまったように思わされたのだろう。しかしダビデは信仰を持って祈っている。「あなたは、私を狙って隠された網から私を引き出してくださいます」(4節)と。実際、敵は、親友の忠誠を崩すことに成功していた。ダビデを暖かく見る者はいなかった。だれもかれもが疑惑の目で彼を見た。歯がゆいことではあるが、変わってしまった風向きを変えるのは難しい。しかしそこで、折れてしまったら、それまでだろう。そこで何に希望をつないだらよいのか。ダビデは、祈っている「あなたの義によって、私を助け出してください」(1節)。「あなたの御名のゆえに私を導き、私を伴ってください」(3節)。ダビデは、神の義、神の御名に期待を寄せた。つまり、ダビデは神の人に対する誠実さに希望をつなげた。そしてダビデは「あなたの恵みを、私は楽しみ喜びます」「あなたは私を敵の手に引き渡さず、私の足を広い所に立たせてくださいました」(8節)と、これまでの数々の恵みに希望をつないでいる。

2.揺れる心を抱えながら

しかし、私たちもそうであろうが、ダビデの心もなかなか収まらない。「私をあわれんでください。主よ。私は苦しんでいるのです(9節)」と揺れている。いやこの詩は、1-8節と、9-22節において、苦悶から信頼へ至る同じプロセスを二度繰り返している。一説に、この時ダビデは、さらに病を患たのではないかと言われている(10節)。外側の敵のみならず、体内に巣くう敵、内からも外からも魂が責めたてられていく。まさにダブルパンチを味わっていた。憂鬱から絶望(12節)、そして四方八方みな恐怖(13節)という孤立感、もはや自分は屍であり、壊れた器である。ゴミ捨て場に捨てられ、誰にも顧みられず忘れ去られていく壊れた器と思わされる状況。なんと望みなき深みに嵌っていることか。この底知れぬ恐怖を、かの預言者エレミヤも同じように味わっているように(エレミヤ6:25、哀歌2:22)、それは決して他人事ではない。そこからどのようにして立ちあがるのか。ダビデは言う。「しかし、主よ。」こんな状況で前向きな「しかし」は難しい。けれどもダビデは、そこであえて言う。「あなたこそ私の神です。私の時は、御手の中にあります」(14節)。ダビデは、あくまでも神の誠実さに期待する。神がご自身を恐れる者に誠実であることに期待を寄せている。

3.神の誠実さに期待する

それは実に大切なポイントである。というのも、ユダヤ人であれば申命記は繰り返し読んでいることであろうし、その申命記を読むなら、そこには神の愛と誠実さが、深く語られている。「あなたの神、主はあわれみ深い神であり、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの父祖たちに誓った契約を忘れない」(申命記4:31)。また、申命記は、神が約束どおりにイスラエルを幸せにするため奴隷の家、エジプトから導き出し、荒野で養い、そして約束の地カナンへと入れさせてくださったことを諭している(8章)。申命記を繰り返し教えられ、このみ言葉に生きて来たイスラエル人であれば、この神の誠実さに期待するのが、最終的な結論となる。神は誠実なお方であり、約束を守られる。

ならば、神のいつくしみに自分を静かに委ねることが、最善の時の過ごし方である。確かに、敵に囲まれ、首根っこを掴まれてまさに打ち首にされそうになったところで、じたばたしても始まらない。むしろ、背負わねばならぬ十字架であるなら潔く、自ら担ぎ上げた方がよい。自分の身に起こるべきことがすべて過ぎ去らない限り、復活の栄光もないからだ。

壊れた器のように自分のことを思うことがあっても、感傷的になって、その気分に浸り続けたり、パニックに陥ったりしないようにしよう。むしろ、窮地に立たされたと思う時にこそ、すべては神の御手に中にあることを思い起こし、神の誠実さに期待を寄せ、神の守りを味わうことである(21、22節)。そして、その経験を踏まえて、さらに神に信頼と讃美をささげることである(23、24節)。「心を強くせよ(24節)」は命令ではなく、「心を強めてくださる」と、肯定または断定として解釈することもできる。つまり、助けを期待する者はそれを確信してよいということだ。

一説に、ダビデは晩年71篇を書いたと考えられているが、この詩篇と同じ書き出しをしている。主への信頼は、一度限りのことではない。繰り返され、深められる歩みである。