詩篇35篇

35篇 主よいつまで

<要約>

おはようございます。救い主イエスが、私たちのたましいのどん底を経験しておられるとしたら、それは大いなる励ましであり、救いです。呪いの詩篇の一つである。詩篇35篇から学んでまいります。どん底の思いも決してそのままであることはありません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

この詩篇も、ダビデがサウルの追跡を受け、彼の殺意と憎しみに振り回されていた時のものであると言われる(1サムエル24章)。しかも、詩篇31篇に、神への信頼を二度深めて語る構造があったように、この詩篇はアクロスティックな構造にはなってはいないが、34篇と合わせると、同じようなしくみになっている。実際に対の詩篇であったとは思われないが、配列的に34篇の後に置かれており、一度34篇で追い払われた暗闇が再び取り上げられている。実際神に信頼することは、それほど単純なことではない。救いの遅延に人は悩まされる。しかもその悩みは深い。人の気持ちはそう簡単に癒えるものではない。もちろん、悲しみや喜びの感情は罪ではないが、苦々しさ、怒り、憎しみは、人を罪の思いや行動に導くものである。実際怒りがこみ上げ、他者を傷つけたいという押さえきれ欲求を感じることもあるだろう。それが人間である。そのような人間に、与えられた安全装置がこの「呪いの詩篇」と呼ばれるものなのだろう。抑えきれない感情を発散させる役目を果たすものである。確かに、人の怒りはことばで言い表す方が、暴力的行為に訴えるよりもよいだろう。ある詩篇は、そのような行為を助けてくれる。つまり、私たちに悪を働いた者に怒りをぶつけるのではなく、神に対して直接、あるいは神を通してその感情を昇華するのである。呪いの詩篇は、人の怒りを取扱い、それを神に表現することを助けるのだ。

人に対して否定的な感情を持っていながら、それを否定しようとするのは、罪深いか、罪深くないかという以前に、非常にエネルギーを無駄にする行為であり、自分に対しても不誠実である。神は、「呪いの詩篇」を通して私たちを「怒っても罪を犯さない」(詩篇4:4)ように導かれている。人は、呪いの詩篇を用いることで「怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」(エペソ4:25-26)という新約聖書の教えを実行することができる。だからそのように鬱積した思いにある時にこそ、繰り返し、この詩篇を口ずさみ、私たちの心を神に注ぐべきなのだろう。

2.私に言ってください

故なき憎しみが向けられることは、まさに理不尽そのもので、これを神のみこころの中に受け止めていくことは難しい。なぜ神はこのようなことを許されるのか。神の目的は理解しにくい。しかし、そんなことは考えても無駄であるし時間の浪費である。むしろ、ダビデは、直に自分の思いを神にぶっつけている。「主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください」(1節)と、神に全幅の信頼を置いて、神に物事を委ねている。いや、神が自分の代わりに戦ってくださることを期待している(2節)。そして、「私のたましいに言ってください」(3節)という。何ら状況は変わらないとしても、神が語ってくだされば、それによって支えられるからである。神はことばで、無から天地万物を創造した。だから神のことばが、人のたましいに語られる、というのは、人の心の中で創造の業が起こる、ということである。望みなき心、闇に覆われた心に光が生じることである。「わたしがあなたの救いだ」と神が人のたましいに語るなら、そこに翻弄された魂が穏やかにされる奇跡が起こる。

3.

続いてダビデは具体的に祈る。「私のいのちを求める者どもが恥を見、卑しめられますように」(4節)「隠した網が彼を捕らえ、滅びの中に彼が落ち込みますように」(8節)やはりおかしなことはおかしい。悪者の横暴が許されるのは何かが間違っている。物事が正されていくように。正義が正義となるように。そうすれば、私たちは神の義を認めてこれを喜ぶことができる。神はご利益をもたらすから喜ばしいのではない。神が神であり、正義をなされる方であるからこそ喜ばしい。

ダビデの祈りの二段落目(11-18節)は、不正からの救いを求める。物事は理屈どおりにはいかない。尽くしたようには報われない。恩は仇で返されることもある。人生にはへこんで、自分には何も助けがない、とうなだれてしまうことがある。しかし、いつまでも、自分の不幸に浸りきっていても仕方がない。憂鬱な気持の中にふさぎこみ、いつまでも、伏せていては、何の進展もない。むしろ、「主よ。いつまでも黙っていないでください。助けてください」と祈り続けるのが信仰者である。空しい叫びのように思えても、なおも祈るのが信仰者である。

三段落目(19-28節)は、神の弁護を求めている。「故もなく私を憎む人々が目配せし合わないようにしてください」ヨハネは、このことばをメシヤ預言の成就として福音書の中に引用している(15:25)。なんと、私たちの救い主ご自身が、このような鬱積した救いのない状況を味わっておられるのだ。ならば、イエスを通して、父なる神に私たちの思いは十分伝わっていると考えるべきだろう。だから、願いは率直に祈るべきである。「彼らに心のうちで言わせないでください」と。しかし、単に自分の思いをぶつけるだけではない。ダビデは言う。あなたの義にしたがって、私のためにさばきを行ってください」(24節)という。私たちの願うところ、思うところを超えて、主の正しさの中で、物事が正されていくように、ということである。

今日も一日が無為に時が過ぎていく、この鬱積した感情をどうしたらよいものか、と思わされることはないだろうか。しかし私たちの救い主イエスもそこを通られたのである。今日も、神に信頼し、祈り続けよう。敵をも、動かす神のことばに信頼し続けよう。