詩篇36篇

36篇 あなたの恵みは天にある

<要約>

おはようございます。悪しき者たちの影響力がいかに強いものか、彼らの言葉や態度は、信仰者の信仰を本当に心底冷えさせてしまうものでしょう。しかし、そのようなことはこの世にあっては、当たり前のこと、驚くようなことではありません。むしろ神の命と天の恵みに生きる私たちは一層、目に見えない神の恵みの深さ、広さ、高さを知り、その素晴らしさに生きるように、務めるべきでしょう。日々、霊的な高嶺を歩ませていただけるように、祈りたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.破壊的な悪者の姿

「私の心の奥にまで悪しき者の背きのことばが届く。」(1節)第三版では、「罪は、悪者の心の中に語り掛ける」であった。心と訳されたヘブル語についた1人称の接尾辞が、今回はきちんと訳出され、「私の心の中に(奥にまで)」となっている。悪者ではない、私自身に影響を与える悪しき者の背きのことば、がある、ということだろう。朱に交われば赤くなるではないが、神を恐れて、悪を捨てようとしない悪者の側にいること、そしてその心に対する影響力は、身震いするような経験である。彼らのことばといい、態度は、心底、神に対する信仰を冷やし、神を信じることの希望を失わせるからである。全く「彼には、神に対する恐れがない」

彼は「自分の判断で自分を偽り」(2節)、欄外注には、「原文難解」とある。第三版では「彼はおのれの目で自分にへつらっている」であった。ヘブル語では、一般に「目」と訳すアインが「判断」と訳された。彼は「自分の咎を見つけて、それを憎む」とある。「盗人にも三分の理」とあるが、罪人すら罪を憎むが、それは、神の目ではない自分の目で判断する罪である、ということだろう。彼らにも論理はあるが、それは、全く自分の勝手な論理であり、神の基準を自分の基準に引き下げてしまっているのである。だから、本来神が罪とされるものを認めることができない、ということなのだろう。

2.神の恵み豊かさ

ともあれ、神を恐れず、自分を基準にする者の、言葉も行動も破壊的である(3節)。それはとどまるところを知らない(4節)。そのような人間の邪悪さに対比され、神の恵み深さが語られる(5-9節)。

神の恵みは天にあり、真実は空高き雲にまで及ぶ、神の義はゆるぐことのない山のようである。神のさばきは深い海のようで単純ではない。ここでの「さばき」は裁判や判断を意味するだけではなく、神の意志をも意味する。人間のせせこましい小さな罪の世界に対比される神の世界の高さ、深さ、広さは計り知れない。

神を信じている、というのならば、その神の超絶的な存在に思いを馳せなくてはならない。神の愛の深さ、広さ、高さ、その義と聖のなんであるかを、悟らされなくてはならない。神は人間とは違うのである。たとえ人がどんなに破壊的な罪人の影響を受けようとも、それ以上に優る、神の恵みと真実、そして裁きに目を注ぐべきだ。確かに、神を信じる者は目に見えるところによらず、目に見えない神のいのちを味わう者である。8節「楽しみの流れ」と訳されたヘブル語は、ナハール・エデンである。ナハールは川、エデンはエデンの園のことである。つまり、神を信じる者は、この世にありながら、またこの世の罪の泥沼にありながらも、もう一つ別の世界に生きることを知っている。神の元にあって、神の祝福の園の恵みを知っており、そこに生きようとする者である。「いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、私たちは光を見るからです」(9節)神のもとにこそ、光がある。神のもとにこそ正義がある。神のもとにこそ私たちが生きるべき道がある。

3.神を求める祈り

そこでダビデとともに祈ろう。「注いでください。(天にある)あなたの恵みを」「(高くそびえる山のような)義を」この私に、と。11節、「高ぶりの足」は、後半の「悪しき者の手」と同様に「高ぶる者の足」とした方がわかりやすい。つまり、高ぶる者、悪しき者が、追いつき迫り、踏みつけることを許さないように、ということである。そして悪者の手に弄ばれ、人を信仰に背かせ、信仰者の仲間から遠ざけることのないように、ということである。高ぶる者、悪しき者に影響されて、神を小さく見ることがないように。12節「不法を行う者は倒れ」の「倒れ」は完了形であり、完全に倒される、ことを意味する。悪は倒されるであろうではない。神の恵みの高さ、真実の深さに、悪は完全に駆逐される。世においては、いかに、悪の現実が強くあれ、またそのことのゆえに、神の真実さがかすむように思われることがあっても、私たちの目が、私たちを囲む神の愛の広さ、高さ、深さをはっきり認めることができるように、祈りたいものである。