詩篇39篇

39篇 待ち望む苦しさ

<要約>

おはようございます。聖書的な原則を理解していても、そのとおりにはなかなか生きることができないものであったりするものです。なんとも不出来な信仰者であることを覚えますが、しかしそれが私たちの信仰の現実というべきでしょう。不出来なのではない、皆がそうなのです。今日もありのままに主を信頼する祈りへ導かれたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

38 篇同様、ダビデは、死を間近に感じる病の中にあった。ただこの詩篇は、37篇で教訓とされた待ち望むことを、実践する難しさを証ししている。具体的に、束の間の人生にある人間を、なぜ神は執拗に懲らしめられるのか、それはヨブの訴えに通じるものであり(ヨブ7:16-17)、愛の神を信じる故の、困惑と問いかけである。

まずダビデは、舌で罪を犯さないようにと努力したという。ダビデもヨブ記を知っており、ヨブの失敗を覚えていたのだろう。苦しみの中にあって、ただ神を待ち望むことが、最善の過ごし方であるとわかっていても苦しみが長引けば、神の御心がわからなくなり、神をなじる者になってしまう、神に恨みつらみをぶつけてしまうものだ。神は、私のことなど忘れ去っている、私など、どうでもよい存在なのだ、といじけてしまうものだ。そして、神が主権者であり、私たちは、神に愛されている者でありながらも、被造物であること、土塊の器であることを忘れてしまうものだ。ヨブも、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならない」と最初こそ模範的であったが(ヨブ2:10)、終いには、言葉に過ぎて、神の前に高ぶりの罪を犯している。

だから、苦難にあって神を待ち望む、スマートな時を過ごすためには、言葉に気を付けることが肝要なのである。神の前に、不平をもらさず、呟かずにいる。そうすることは、すべては神の御手の中で起こっているという、私たちの神に対する信頼を示すものなのだから。神の権威を認め、神を信頼していることを証ししているのである。確かに、信仰を持つというのならば、神に不平を漏らしたい思いはありながらも、余計なことを言わずに、詩篇38篇と同様に、神のめぐみを忍耐強く待ち望むことだ。

2.はかないいのちで悔いる虚しさ

ただ詩篇38篇での待ち望む困難さは、友人や敵たちの残酷さのためであったが、この39篇では、詩人が人間のはかなさを思い始めたことにある。「あなたは、私の日数を手幅ほどにされました。あなたの御前では、私の一生はないも同然です」(5節)つまり、罪を犯す人間の存在が非常にはかなく傷つきやすいことを思い始めると、なぜそんな弱い存在を神が厳しく罰せられるのか、神の懲らしめは不釣り合いではないかという思いに圧倒され、ますます神の愛がわからなくなるわけである。

そのような落とし穴に落ち込んで不信仰になってしまうことに警戒しよう。罪を思い出させられるのなら、悔い改める他はない。ダビデは自らの罪を認めて言う。「私のすべての背きから、私を助け出してください。」(8節)ダビデはさらにこう加えている。「あなたは、不義を責めて人を懲らしめ、シミが食うように人の欲するものをなくされます。実に、人はみな空しいものです。」(11節)神は罪を罰せられるというが、もうたくさんということもある。神の責めに耐えきれないことがある。後悔しているか?と聞かれれば、後悔の連続である。もう、何年も何十年も自分の愚かさは忘れたことはないし、できることならば、時間を逆戻りさせて、罪を犯した愚かな若造である自分の側に行ってそんなことは止めろと言ってあげたい。だが、現実は、取り返しのつかない過去を抱えながら、後残り少ない命を抱えながら、神に打たれてしおれている老いた自分がいるだけ。深い衰えを感じながら、こんなことが後どれほど続くのだろうか、と疲れ切った思いになっている(10節)。ダビデの悲哀を感じるところだろう。

3.朗らかになれるように

救いようのない絶望感の中で、解決を得るとしたら、そこで敢えてなおも神のあわれみを請うところにある。「主よ、私の祈りを聞いてください。助けを求める叫びに、耳を傾けてください。私の涙に、黙っていないでください。…私が朗らかになれるようにしてください。私が去って、いなくなる前に」(12-13節)。後残り少ない命と思う中で、神が必ず、私の心を晴れやかにしてくださる、と信頼し、祈り続ける。これは、絶望の祈りではなく、信頼の祈りである。というのも、39篇の12節「主よ、私の祈りを聞いてください。助けを求める叫びに、耳を傾けてください」は、40篇の1節「私は切に、主を待ち望んだ。主は私に耳を傾け、助けを求める叫びを聞いてくださった」に対応している。39篇は40篇の勝利の歌に続くのである。神に対する信頼が消え失せようとする時もなおも、神に呼び求めていく。神の善なること、神のあわれみ深いことを覚えて求めていく。それが信仰である。結局は、どこまでも神を信頼し、神のあわれみにすがる、神のあわれみを待ち望み続ける信仰の忍耐が必要なのだ。諦めずに神に助けを呼び求めよう。