詩篇76篇

76篇 ヤコブを愛される神
 おはようございます。今日の詩篇も、私たちの心に深く、染み入るように語り掛けてくる内容です。神はヤコブの神。能力ある者、力ある者ではなく、無力で、ただ主に寄り縋る他知恵無き者の神です。その神の助けを期待し、祈りましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
 七十人訳聖書では、「アッシリヤについて」という表題がある。つまり、66篇、75篇と同様、イスラエルが神の介入によって、強国アッシリヤから奇跡的に救い出された出来事を背景としている(2列王記19:35-37)、と考えられている。明らかに神がもたしてくださった勝利を歓喜する歌、というわけである。しかし、時代的に見ていくと、詩篇の表題は増加する傾向にあったと考えられている。だから、ヘブル語オリジナルの原文(マソラ本文)にないにも関わらず、ギリシャ語に翻訳された七十人訳にある表題は、疑わしい。
実際、2節、シャレムはエルサレムの古い呼び名であるし、ダビデの時代と考えるこ友可能で、いつの時代のものであったかは、あまりはっきりとはしない。
2.神の威力への賛歌
3節、神は、敵の火矢を砕き、武装を解除された。4節、二行目「獲物で満ちる山々」は、新共同訳は「餌食の山々」と直訳調である。ヘブル語の原語ではタレフ。テイト、レイシュ、ペイの三つの文字で構成されるタレフという単語の内、最後のペイを文字形の似ているメムに読み換えると、ツェレムで「永遠」という意味になる。そこで、ギリシャ語七十人訳では「永遠の山々」、口語訳でも「永久の山々」と訳している。
これらの訳語の違いをどう考えるか。実際口語訳の「永遠の山々にまさって光栄あり、威厳がある」とはどういう意味だろうか。イスラエル人にとってシオン、エルサレムは、永遠の山々に違いないので、そこからそれ自体に優る威厳、と言いたいのだろうか。とすればエルサレムが守られた、それはエルサレムが素晴らしいのではない、エルサレムを守られる神である、と意味にもとれる。新共同訳の「あなたが、餌食の山々から光を放って力強く立たれるとき」とはどういう意味だろう。敵の戦士が、シオンの山にしかばねとなって積み重なっている様を眺めながら、まさにシオンの山で敵を餌食とし、エルサレムの神殿に凱旋された神の威力を覚え、敵の力に優るその神の威厳を讃えよ、ということだろうか。前後の文脈からすれば、どうも獲物は、5節打ち破られた豪胆な者たち、勇士たちの言いかえのようでもあるので、それが自然な解釈にも思われる。実際英訳(Today’s EnglishVersion)の「神よ、あなたはなんと輝かしいことか。なんと素晴らしいことか。あなたの敵を打ち負かしたその山より帰り来る時に」と思い切った意訳は、そのような解釈を支持しているようだ。新改訳2017の「獲物に満ちる山々にまさって威厳がある」も基本的に同じような考えではないか、と思うが、ひょっとすると、自然の山々を眺め、そこに、シカやクマ、狩りの対象となる獲物に満ちた山々、その山々に優る神の存在、という印象もありうる。「獲物」と訳された単語タレフの意味は、よくわからないが、大事なことは、1-7節の全体から神の威力を感じることなのだろう。
そして注目したいのは、神はイスラエルの神ではなく、ヤコブの神、と呼ばれたことである。ヤコブは愛されるような人ではなかった。野心があり、人間的な弱さを持ち、何の取り柄もなく、窮地に至っては神以外に頼るものもなかった。神はそんなヤコブの味方となってくださった、という。ならば、人には粗末に見捨てられるような自分を感じていることがあれば、神はそんな自分の味方になってくださると思うことができる。不思議なことであるが、愛されない者の側に立って、愛されない者を叩きのめそうとする敵を打ち破ってくださる、神がいる、と語る著者のメッセージをよく受け止めることだと思う。
この歳になり、様々人間諸相を見て、思うことがある。人間の縁は不思議なものである。傷や痛みを持っていて、それによって引かれて縁が結ばれ、必ずしもその傷や痛みが癒されるのではなく、益々お互いに痛めつけ、苦しめ合うことで毎日が成り立っているような状況があったりする。そしてある日それは破綻する。お互いにそれを望んでいるわけではないし、実際には、そのようなところから解放されたい、とは思いつつ、お互いに正直にそのような現実に向き合うこともできないし、そこを克服していくこともできない。なんとも人間というのは、寂しくも悲しく弱い存在であると思わされることがある。だが、たとえ人間がそのような現実を持とうとも、神は、その人間を拒否するのではなく、その人間を愛し、人間が人間であることを喜びとし、立ちゆくようにしてくださるお方であると言わなくてはならない。聖書の神は、立派な者の神ではないし、お利口者の神でもない。ましてお金持ちの神でもエリートの神でも、力ある者、能力ある者の神でもない。ヤコブの神である。力や権力に任せ暴虐無人な振る舞いをする者を叱りつけ、全く人々からはどうでもよい、と思われている、いやどうでもよく扱われてきた人々を救ってくださる、というのは、なんと人の痛みを感じ、人の気持ちを汲んでくださる、素晴らしい神ではないか、ということだ。
3.主を信頼し、主に誓いを果たせ
「天からあなたの宣告が聞こえると、地は恐れて沈黙しました。神が、さばきのために、地のすべての貧しい者たちを救うために、立ち上がられたそのときに。」(8,9節)「地上の貧しい者たちをみな」とある。現実社会を見る時に、貧しい者に何の幸いがあると言えるのだろうか。しかし、この時、神はその貧しい者に目を留め、味方になってくださったのだ。そして、屈強な最強の軍隊も一網打尽にされてしまったのだ。その歴史的現実に詩人は注目させようとしている。
そうであればこそ、「あなたがたの神、主に、誓いを立て、それを果たせ。主の回りにいる者はみな、恐るべき方に贈り物を献げよ。」(11節)、という。私たちが貢物を治めるべきお方は、この方である。私たちが同盟を組むとしたら、あるいは従属するとしたら、この方をおいて他にはない。私たちが忠誠を尽くすならば、この方にこそ尽くすべきである。人は、自分を相手にもしないような者に助けを求めがちである。そして一層自分の無力さを思い知らされ失望と悲しみを深めてしまう。本当に心を開くべきお方は、ヤコブの神、貧しい者たちを救われる神であろう。目に見えない神の業にかけてみよう。

詩篇75篇

75篇 神の主権に安らぐ
 おはようございます。「滅ぼすな」の調べについて、理解を深めたいところです。これはある意味で、神を信じる者が、覚えるべき、人生の基本公式のようなものです。人間的に滅ぼしてはならない。神に裁きを委ねていく。復讐するわれにあり、という神に期待していく。神の主権と正義は確かだからです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈
この詩が詠まれた背景として、BC701 年、アッシリヤによるエルサレム攻めの出来事があったとされる(2列王19:36)。その時、神の奇跡的な介入があって、エルサレムの攻略は失敗し、セナケリブは敗走した。しかしそれが背景であるとすれば、アサフは、ダビデ・ソロモン時代の人物なので、時代的な矛盾を抱えることになる。つまり背景はよくわかっていない。
 ただ表題は、詩篇57、58、59にも出てくる「滅ぼすなの調べで」とある。新改訳の「~の調べで」は、これを朗読または音楽の調べと解釈し、説明的に加えたことばである。
そもそも、詩篇57、58、59は、感謝と賛美の詩であるが、ダビデの危機的な状況で詠われた。それは、サウルに命を狙われ、追い詰められた状況の中で、しかし、主に油注がれた王であるサウルを撃ち殺すことはできないジレンマの中で、ことに57篇は、反逆の機会が与えられても、手を下し、人間的に滅ぼそうとしなかった状況にあって作られている。つまり「滅ぼすな」は、神の裁きに委ねて、「殺してはならない」(1サムエル26:9)という意味を持つ。
2.神への感謝
その前提を押さえて1節を読むと、まず、詩人は、神への感謝の声をあげる。「感謝」は「告白」とも訳せることばで、ヘブル語原文では、同じことばが二度繰り返されている。つまり、強調であり、神の素晴らしい助けに心からの感謝のことばがほとばしり出ている状況を物語っている。
「御名は近くにあり、あなたの奇しいわざが語り告げられています」(1節)。御名は、神の存在を表す。イザヤが「見よ。主の御名が遠くから来る」(イザヤ30:27)と語ったように、「御名は近くにあり」というのは、神が物理的に近く切迫して存在する、ことを意味する。単純に、神が遠くにあれば、呼んでも答えが得られない。しかし、「近くにあれば」すぐに答えてもらえる状況である。だから神が近くにある、というのは、必然的に神が私たちの人生に介入し何事かが起こる、神の次のアクションへの期待感を生じさせる。
ともあれ詩人は、神を身近に感ずる経験に基づいて感謝を言い表し、証をしている。そのような意味で、信仰生活は、まず何よりも、神の配慮と恵みを味わうことにその本質がある。日々の生活の中で、神の善であることを味わい知らなくてはならない。そのことが分かっている人の奉仕や証は、牧師としても、見ていても安心である。しかし形が先行している人の信仰生活は、不安定で危うさを感じる。
奉仕や証の基本に、神の恵みの介入があり、感謝がある。その順序は逆にはならない。十番が逆になってしまうと、自然なものが自然にはならない。最近教会から帰るとホッとするなどという人と出会ったが、それは、今の教会があまりにも忙しすぎるという状況があるのみならず、やはり、証が先、奉仕が先になって、神の恵みを感じず、味わうこともなく歩んでいることもあるのだろう。調子のよい時はそれでもよいが、精神的に弱っている時には、証も、奉仕も続けられないのは田泓善である。「御名は、近くにあり」という信仰の歩みを大事にしたいところだ。
3.復讐するは、我にあり
 詩人は、自らの経験を通じて、神の絶対的主権を認める。その主権は、私たちの生活に及ぶ主権である。「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。まことに 神こそさばき主。ある者を低くし ある者を高く上げられる。」神の主権は概念上のことではない。神の主権は、実際に私たちの生活の内に働くのである。私たちが左遷させられるのも、栄転するのも、神の業である。人を怨んだり、人に怒りを燃やしたりするようなことではない。そのような意味では、私たちが不用意に自己卑下する必要もなく、静かに神の時とご計画を思い、神の前にただ謙虚に生き、ただ神の正義がなされることを求めていくことが大切だ。詩人は言う。「主の御手には杯があり、混ぜ合わされた泡立つぶどう酒が満ちている。」(8節)。このぶどう酒は神の怒りの杯を象徴している。この世の悪者どもが、最後の一滴まで飲み干さなくてはならない裁きの杯である。あれもこれも神のなさることとすれば、神の裁きが中途半端になることもない。神は、悪者をきっちり裁かれる。ただその「定めの時」(2節)は、人にはわからない。だから表題にある「滅ぼすな」、という精神が、教訓的に詠われるのである。悪しき者が栄えている時に、そのように見通すことは難しいことかもしれない。悪しき者の勢いはそんなに容易くは衰えないものであろう。しかし、悪しき者の力は打ち砕かれ、正しい者の力は増し加えられる。主の主権が私たちの生活にどのように働くかを、私たちは知らなくてはならない。そこに私たちの感謝と証も生まれるからだ。

詩篇74篇

74篇 神に期待を置く積極的な待ち
 おはようございます。人間は愚かな者であり、結局は神のあわれみに寄り縋るほか、何の解決策も持ちえない者です。アサフの賛歌集は、ダビデの賛歌集と比べて、より冷めた目で、信仰の原則を見つめているような気がします。神の前に正直な姿になって、神を信頼していく信仰を深めたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
この詩篇が語る、国家的惨事では、聖所が、「手斧と槌」(6節)で破壊され、火で焼き払われてしまっ(8節)」ている。「もう私たちのしるしは見られません」(9節)と、それと見てエルサレムとはわからない状況が起こっている。神の選びの民、イスラエルは、全く神に見捨てられ、民族は根絶やしにされ、それは永久に取り戻すことのできない大打撃であった。「もはや預言者もいません」(9節)、窮地にあっては必ず神の言葉を語り告げ、光を与え、民を支えた預言者も消え失せてしまった、と言う。それはいつの時代の出来事を語っているのであろうか。
1マカベア書4:46に預言者がいなかった同様の状況が書かれていることから、これを中間時代のアンティオコス・エピファネス(BC168-5)の迫害下の作とする説もある。しかし通常は、79篇、137篇や哀歌(2:9)に通じる国家的惨状、BC586年のエルサレム破壊とバビロン捕囚を背景とする、と考えられている。となれば、アサフはダビデの時代の人であるから、この詩を詠んだアサフは、捕囚期にアサフの役職を引き継いだアサフの子孫を指すと言える。
2.苦悩の中での願い
さて、興味深いのは惨状を語る後の展開である。というのは、普通の展開であれば、なぜ神は、エジプトから救い出した、ご自分の最愛の民族をこのように扱われるのか?となり、神との契約を破ったこと、神の民としてふさわしくない歩みをしたことへの悔い改めの祈りが来るはずであるが、そのようにはならない。むしろ、「神よ、いつまで、はむかう者はそしるのですか」(10節)「なぜ、あなたは御手を、右の御手を引いておられるのですか」(11節)と神との関係はしっかり維持されていることを前提に、敵対する者への性急な報復を願っているのである。そして「神は、昔から私の王、この地において、救いのみわざを行う方」と語り、かつての出エジプトの御業を思い起こしながら、神の破壊力の強さ(13節)、そして神のこの世に対する支配(16節)を讃えている。ヘブル語原語で読むと、12-17節には、「あなたは」という人称代名詞が繰り返される。通常ヘブル語は、動詞の活用形に主語が含まれているので、人称代名詞を必要としないから、それは強調的な意図として加えられていると理解できる。どうか、あなたのその力を下してくださいと熱が入っているのである。自分たちの罪に対する反省はどこにもなく、ただひたすら主の回復を求めている。果たして神はこんな祈りに耳を傾けられるのだろうか?たとえ耳にしたとしても、心動かされるのだろうか?
3.厚かましくも祈る。
かし、身勝手であったとしても、苦しみの中にある者にとっては、神のあわれみを願う他はない。どんなに厚かましいと思われようが、そんな資格はないのだ、と言われようが、今自分が陥っている現実を変える術は、ただ神のあわれみのみである。だから詩人は言う。「主よ。お救いください」(19節)神が、人間とは異なる性質の愛を持ったお方であるとするなら、いつまでもだらだらその怒りを引きずることはないだろう。詩人は、神の主権と力をほめたたえたが、実のところ、神の愛に対する絶対的な信頼感を抱いている。神の愛は、人間のように気まぐれでも、損得に基づくものでもない。人間とは全く違うのだ。神は、罰を受けた罪人の痛みもわかっておられる。神の憐みは深い。
そこで詩人は、神の契約に訴えて祈っている。「どうか、契約に目を留めてください」(20節)。繰り返される命令形の動詞がある。ゼホール、2節、18節、22節、日本語では多少訳が異なるが、「心に留めよ」が繰り返される。そして、20節は、ハベット「(契約を)見よ」23節は、ティシュカーで「忘れるな」である。
実に身勝手ではあるが、神が持ち出し、一方的に結ばれた契約に詩人は寄り縋る。神の私たちに対する一方的な愛と責任に訴える他ない状況というべきだろう。かつて、神がアブラハムとの契約を守られ、アブラハムが失敗してもいつもより沿ったように、神が私たちに対しても、キリストとの契約を守られるように祈ることが、現代の私たちの務めである。私たちと神との契約ではない。神とキリストが交わされた契約に基づいて、私たちも祝福される。それは、私たちの功績も性質とは何ら関りがない。私たちの不誠実さにも関わらず、キリストの契約は実行される。そこに私たちは希望をつなぐのだ。神とキリストの契約が破棄されることはない。聖餐がその契約のしるしであるように、私たちは教会でパンとブドウ酒を味わうごとに、主キリストが、神と契約を交わされた祝福が、私たちにもたらされることを信頼するのである。
4.積極的に期待をもって待つ
だから最後に詩人は、神の栄光があらわされることを願いながら、ただひたすら待ち望んでいる。しばしば人は待つ以外に術を持たない。しかしそれは消極的なもの、「諦めの待ち」ではなくて、「神に期待を置く積極的な待ち」である。神に希望を抱くのみならず、積極的に神の業を期待していくのである。
年の暮れに、何かどん底にいる人々の歌を詠むのも、どんなものかな、と思うところもあるかもしれない。しかし今日この箇所が当たったのは、それなりの意味があるのだろう。この詩を読んで、そうだ、そのように苦しんでいる方々と共に、陰ながら祈ろうと思われた方は、その趣旨をよく理解しておられるだろう。私たちは万人祭司であると言われるように、私たちの在り方の本質はとりなしであることを忘れてはならない。自分の事だけを考えるのではなく、自分と同じように痛みを覚えている方々のために、陰ながら祈りとりなす者でありたいし、教会の祈祷会をそのような場にしていきたいものだ。新しい年は、いよいよ熱心に祈る教会として成長していきたいところである。

詩篇73篇

第3巻 73篇 神を堪能して生きる
 おはようございます。詩篇の第三巻に入ります。ダビデの詩がほとんどであった第一巻、第二巻に続いて、今度はアサフの詩が大方を占める第三巻となります。その最初に、アサフの個人的な経験からの信仰を語る詩が収められていますが、それは、実にキリスト者が、神の永遠性に繋がって生きているかどうかを問うものです。この世の現実を全く違った観点から見る力というのは、神の永遠性に繋がればこそと言えるでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈
 本日から詩篇の第三巻(73-89)に入る。第三巻の大部分(73-83篇の11篇)はアサフ、つまりダビデ時代の聖歌隊指揮者の一人(1歴代誌25:1)が作ったものである。
 「まことに、神はいつくしみ深い、イスラエルに、心のきよい人たちに。けれどもこの私は、足がつまずきそうで、私の歩みは滑りかけた」(1、2節)。詩篇73篇はアサフの生々しい個人的な信仰の経験に基づくものである。彼もまた、この世の生活で、悪人が栄え、それによって神を恐れる人が苦しめられる状況に直面した。これまでの詩篇は、そのような不条理は一時のことである、神を待ち望めと諭すものがほとんどであった。「悪しき者は、まさしく風が吹き飛ばす籾殻だ」(詩篇1:4)とあるように。しかしアサフは、そのようには見ていない。「実に、彼らの死には苦痛がなく、彼らのからだは肥えている。」(4節)。「彼らはいつまでも安らかで、富を増している」(12節)。彼らは一時的な存在ではないし、苦しみの内に必ずしも、後悔の内に死を迎えるわけでもない。神に打たれ、途方に暮れ、苦悩に陥いるわけでもない。その繁栄は最期まで守られるのである。
2.信仰をもてども現実は厳しい
 そして神に忠実な者は、どうかと言えば、アサフは自らの心境を語る。「ただ空しく、私は自分の心を清め、手を洗って、自分を汚れ無しとした」(13節)。神に悪しき者の繁栄を妬み憎しむ心のきよめを願って、宗教儀式に励んだものの、「私は、休みなく打たれ、朝ごとに懲らしめを受けた」(14節)。つまり真面目に神を求めたところで何になろう。神の前に誠実に生きても、苦しみと災いばかり、少しも幸せなことはない。「悪者の行いに対する報いを正しい人が受け、正しい人の行い対する報いを悪者が受ける」なんとも、神のなさることは不可解でわからない。自分など神の前から見れば、残飯を漁ってうろつきまわっている野良犬のように人間社会の背景に退いていたらよい、どうでもよい存在ではないか。だがそのように毒づいていたら、次世代の者たち、どんな証が立つのか。信仰の希望を語りながら、それが全くもって口先だけの現実(15節)。アサフの心境に、共感を得る人たちもいるのではあるまいか。
3.同じ現実を違ってみられるようになるかどうか
 ところがアサフは続ける。17節。「ついに私は、神の聖所に入って。彼らの最期を悟った」聖所は、ヘブル語の原語では複数形。つまり強意の複数で、「最高の聖所」を意味するが、。至聖所ではない。至聖所は、大祭司だけが年に一度、入ることができた場所なので、アサフがそこに入ることはありえない。アサフは聖歌隊指揮者の一人として、神の聖所を訪れることはしばしばであっただろうが、その日常の中で、ある日深い神の臨在に触れた、と言うべきだろう。そして、それまで目に映っていた悪しき者の現実の姿が、全く違って見える経験に導かれているのである。彼は告白する。悪しき者たちは、滑りやすい道を歩んでおり、滅びと背中合わせに生きている。そんな真理をよく理解もせず、「愚かで、考えもなく、神の前で獣のよう」(22節)であった自分に気づかされた、と。目にする現実は変わらずとも、その現実が違ったものとして理解されるのである。18節冒頭の「まことに」は、ヘブル語で「アハ」それは驚きを表現している。
実に人は弱く傷つきやすい。そして傷ついてしまって、恥ずかしいほどに、弁えもない人生を歩んでしまうことがある。だが、そうなる前に、神の聖所に入り、そこで神に語られる必要がある。上から「ついに、彼らの最期を悟った」という経験を得る必要がある。アサフは、悪人の繁栄は一時的であるという結論に戻っているわけではない。彼らは一生涯、安らかで、富を増し、長寿を全うし、苦しむこともなく死ぬこともあるだろう。しかし、彼らの運命は永遠の滅びであることには間違いない。けれども、神を信じる者を、神は滅びるままにされることはない。たとえ私たちが愚かさの中に迷い込んだとしても、神は、滅びの淵に立つ私たちの右の手をしっかりつかんで、引き戻してくださる。守ってくださる。人にとって決定的に重要なのは、誰と共にあるかである。悪しき者は、神より引き離されるであろうが、義しい者は、永遠に神が避け所であり、神が住まいである。このような永遠の時間枠の中で、人間存在の意義をはっきり確信できることがキリスト者の救いである(28節)。そうであればこそ、不条理な状況にあっても、神に生きる前向きさを持つことができる。私たちを待ち受けている永遠の賜物と神の素晴らしさを味わい、堪能して生きることが人生の最高の祝福である。神の聖所で悟りを得る(17節)、そのような転機のある一日を過ごすこととしよう。

詩篇72篇

72篇 メシヤの王権
 おはようございます。ソロモンの作か、ダビデの作かで議論のある詩篇です。しかし、メシヤ詩篇として読むのが、最も納得のいくところでしょう。そしてメシヤに倣い、神の御前に謙虚に、神のあわれみをもって、指導権を発揮していく。そこに人の上に立つ者の姿があるように思われます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈
新改訳2017になって、表題は、「ソロモンによる(第三版)」から「ソロモンのために」と訳が変更になっている。それは、締めくくりに、「エッサイの子ダビデの祈りは終わった」(20節)とあることを理由としている。確かにギリシヤ語の七十人訳では、「ソロモンのための」とされており、ヘブル語の本文でもそのように解釈することは可能である。そして最後には、「ダビデの祈りは終わった」とあり、詩篇の第二巻が締めくくられている。ただし、収録された詩篇は、ダビデだけによるものではない。ダビデは第二巻の主たる作者であり、ソロモンが作ったことを否定する理由もないので、判断はなかなか難しいところである。
 というのもソロモンがこれを作ったのであれば、ソロモンが自分自身の王となった時に、その召しの高さを覚えてこれを綴ったと理解できるし、確かにこの詩篇は、ギブオンで、ソロモンが祈った王の理想像(1列王記3:6-9)によく似ている。だが、ダビデがこれを作ったとなれば、後継者に対する最も願うところをまとめたと考えることができるだろう。ただ、義もあわれみもない過ちを犯したダビデが、果たしてこのような詩を作りえたのか。いや、そうであったからこそ、自戒的に作り得たのだ、とも言える。実際ダビデは、自身の過ちの根本にあわれみのなさがあったことを認めている(2サムエル記12:6)。そしてこの詩も、王が王であることを祈り求めている中で、王が神の義の実現者であることを祈り(1-4節)、義による終わりなき統治を願っており(5-11節)、それが結局、王のあわれみ深さによって実現するものであることを中心に据え語っている(12-14節)。となれば、ダビデの経験に裏打ちされ、最も彼の言いたいことを凝縮した詩篇と理解することができるのだろう。
いずれにせよ、この詩は、人の上に立って国を治める者が、どうあるべきか、そのポイントが、義とあわれみにあることを教えている。
2.メシヤ詩篇として読む
さて、この詩篇をメシヤ詩篇として引用している新約聖書の箇所はない。しかし、これを万物の王であるキリストを預言するメシヤ詩篇として理解することが、最もふさわしいことなのかもしれない。描かれている王の姿とその領土は、イザヤ書の預言によく似ている(イザヤ11:1-5、60-62章)。もし、イザヤ書のその部分をメシヤ的に理解するのであれば、この箇所も同様に理解してよいと思われる。つまりこの詩篇は単純に地上の王ソロモンの王たる心得を述べたものではなく、人間が到達し得ないメシヤの統治を歌うものとして読むことができる。
そこでまずこの詩篇は、正義によって王国が統治されることを祈っている。「あなたのさばきを王に、あなたの義を王の子に授けてください。彼が義をもって、あなたの民をさばきますように。公正をもって、あなたの苦しむ民を」(1、2節)。それは人間的、主観的な正しさを超えた、神の義が与えられ、公正な裁きができるように、ということだ。ダビデが失敗したのもそこである。義も人それぞれであり、謙虚さを欠く王の義は主観的である。そして正義はしばしば力にすり替えられていく。そうであってはならず、人間は人間の限界を弁え、ただ神の義の実現を恐れつつ追及する者でなくてはならない。
 そして第二に、「海から海に至るまで、川から地の果てに至るまで、王が統べ治めますように」(8節)とあるように、全世界に及ぶ神の主権が祈られている。タルシシュは、今で言えば南部スペイン、シェバはサウジアラビア、セバはエチオピアとされる。「すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えるでしょう」(11節)。全世界に及ぶ王権は、イエス・キリストにおいてのみ成就した。注目すべきは、その主権が策略によるものでも、人間的な世襲によるものでもなく、実際のあわれみに満ちた善政の中で生まれてくる点である(12、13節)。まさに、神のあわれみに生き、罪人のためにいのちを捨てられた、神の子キリストによってそれは実現した。主イエスにこそ、真のあわれみがあり、いのちの贖いがある。
最後に王の祝福が祈られる(17節)。御子によって世界が祝福されるように祈る。まさに「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」と締めくくる、主の祈りを祈るごとく、御子の栄光を祈るのは、御子が救い主であればこそである。
私たちにとって必要なのは、この地上にあって上に立つ者を認め、祈ることのみならず、目には見えないが、主権をもってこの万物を統治しておられるメシヤをはっきりと認め、そのメシヤに栄誉を帰すことである。今日も、主の栄光をまず仰ぎ、主をたたえ、主にお仕えする者であることを、心に留めて歩ませていただきたい。