詩篇50篇

50篇 神の愛に応答する

<要約>

おはようございます。信仰を持つというのは、どういうことなのでしょうか。生活上に宗教的な習慣が増えたことを意味するのでしょうか。それとも、世俗から離れて、神に没入して生きていくようなことを意味するのでしょうか。いずれでもないでしょう。神を喜び、神に感謝する、そこを原動力として日々人間として当たり前の感覚を失わずに、正しい道を選び取り生きていくことなのだと思います。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.宗教的であっても形式的な者たちへの警告

一読して、なぜか、マタイの福音書25章にある、終末においてより分けられる、羊と山羊のたとえを思い出すところである。まず神は、ご自身を義なる審判者として現されている。そして、「わたしにある敬虔な者をわたしのところに集めよ」と言う。まず、神と契約を結んだ者たちが集められる。神は審判者として彼らの行いを調べ、彼らが宗教的ではあっても形式的な礼拝者達であることに警告を発せられる(7-15節)。彼らは、神との生き生きした関係を持つことをせず、儀式的にすべてをこなすだけである。神の不興を買っているということがあれば、それはいけにえが足りないためである、と考える。今の時代で言えば、奉仕が足りない、献金が足りない、それが問題だと考えるようなものだろう。だが神は言う。「わたしはあなたの家から雄牛を、囲いから雄やぎを取ろうとしているのではない(9節)」と。神は、自ら天地をお造りになったのであって、もともと地上のものは皆神のものである、と言う。だから、なぜ人に、そのようないけにえを要求しなければならないのか、と(13節)。感謝なきささげ物、喜びなき奉仕、これが神を喜ばせるものであろうか、私が見ているのは、献金や奉仕ではなく、それを行う者の心だ、というわけだろう。

近年教会の伝道力や教育力の弱さが言われたりする。何が問題なのか。指導者の勉強不足だという話もあるし、教会内での教育が徹底していないのだ、という話もある。だが、私は、率直なところ、信仰者一人一人がどれだけ、生き生きした、神とのよき時を持っているのであろうか、と思うところがある。聖書よりも神よりも、心を魅惑するものがあり、それに時間も財も力も注ぎ込んでいる現実というものがあるのではないか。一日特定の時間を定めて、聖書を開き、ゆっくり落ち着いて神との対話を楽しむ時があるだろうか。聖書を学ぶためでも、説教を準備するためでもなく、ただ友として語り、過ぎる時を持つのである。そして神のことばを心に留め、一日を過ごす。神に対する感謝、神に対する喜びが、神と語り合う中で生じ、それがその人の生活に広がり、そしてさらに奉仕や献金、また働きに現れているかということが問題なのである。

だから大事なのは、第一に感謝の気持ちである(14a節)。繁栄の時も逆境の時も、祈りと感謝を忘れてはならない。いつでも神が求めるものは、礼拝者との対話であり、面会ではない。神に心を開いて、神の御声に耳を傾け、神に礼拝する心があるのかどうかが問題である。そして第二に、誓を果たすこと(14b節)。神の人格を認めることが信仰の本質である。忠実な信仰は、神に対する誠実さを持つことであり、神との誓いに責任を持つことである。神はこう語られていても、「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出し、あなたはわたしをあがめよう」(15節)と罪人に対する優しさを示している。

神と心通う礼拝こそが、求められるところである。このディボーションにしても、ただお決まりの時間に聖書を開く、というのではなく、確かに神に語られていく。神の言葉をいただいていく、ということが大事なのである。

2.悪しき者への裁き

次に、神は偽善的な礼拝者達に語っている(16-21節)。何事か、まるで神が自分と共にあるかのように語るお前は、である(16節)。マタイの福音書のたとえからすれば、「主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょう」と反論する者たちである(マタイ25:44)。しばしば人は、神は霊的な存在であると同時に、道徳的な存在であることを理解できないでいる。また、その道徳も、自分と同じようなレベルであると考えていることがある(21節)。しかし、神はそうではない。神は、盗み、姦通し、欺き、悪口を語る方ではない。神と人は根本的に違うのだ。そのような道徳的な低さからなされる礼拝にどんな意味があるのか。私はそれを喜ばない、あなたを罰しないからと言って、黙認しているわけではない。大目に見ているわけでもない。

大切なことは、神はこのような者たちに、単純に有罪判決を下そうとしているわけではない。むしろ悔い改めを求めておられる。神を忘れる者に対して、熟慮せよ、弁えよと勧められる(22節)。

そして、神はいつでもご自身を認め、ご自身に対して心通う歩みをする者に対して、祝福を与えよう、と約束される。私たちに求められていることは、いつも、神に対する感謝を数えあげ、それに値する従順を示すことである。真に生きた信仰、神の愛に応答する信仰者であろう。

 

詩篇51篇

51篇 城壁を築き直してください

<要約>

おはようございます。ダビデの罪の告白の祈りとして親しまれてきた詩篇です。しかし、文末には、国家のための祈りが加えられています。私たち打ち破れた罪人と同様、打ち破れた罪の国家としての現実もあることでしょう。私たちに神のあわれみを祈ると同時に、国家に神のあわれみが注がれることを祈る、それは深い罪認識を持ち、遜った者の務めというべきものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

表題にあるよう、この詩は、ダビデがバテシェバのことで罪を犯し、預言者ナタンにその罪を指摘され、罪を認め悔改めがなされた時(2サムエル11、12章)に歌われたものである。悔い改めの詩篇の四番目にあたり(6、32、38、51、102、130、143篇)、中でも最も偉大なものである。

まずダビデは、神のあわれみを求めている。もちろん自分が神の厚意を受けるに全く値しない者であるとはわかっていても、放蕩息子がそうであったように、神と人との父子関係は消し去ることはできない。神と人もその血のつながりを解くことはできない。しかし、ダビデは、もうお前は、私の子ではない、と放り出されて当然のことをしでかしてしまった。ダビデは自分が、神の前にどうであったか、その罪深い状況を認めている(3節)。そして、詩篇49篇にあるように、神に見捨てられることがどんなことであるか、人はよみからの贖い金を支払うことは決してできないことを彼はよく理解していた、と言えるだろう(49:15、5:11)。

2.罪人としての現実

そこでまず自分の罪が拭い去られるように願っている。ダビデは衝動的で迂闊だった、あるいはバテシェバにも問題があった、と言い逃れをしようとしていない(4節)。ダビデは、自分の罪を自覚し、葛藤した。その罪は「いつも私の目の前に」あった。罪は私を苦しめ続けた。心を暗くし(6節)、喜びと楽しみを奪い去った(8節)。心と体を打ちのめし、砕いた。御霊を殺し(11節)、救いの喜びを奪い(12節)、神のもとから迷い出させてしまった(13節)。罪を自覚するのは、確かに私にも悪いところもあったからだ、という程度のことではない。そもそも私は、神をあざけるものである。私はいばらであり、いちじくであり、悪い木である(マタイ7:17,18)、性根の腐り果てた者である、神の願うところとは深く隔たって生きている者である、という認識にまで至っている(5節)。罪の負の結果を味わいながら、人は自分の本性に気づかされることがある。そしてもはや、罪を繰り返す自分自身の根本的な救いを求めるようになるのである(6節)。そのように、もがき苦しむ者を神が見捨てられることはない。

3.神の愛

「神へのいけにえは、砕かれた霊、打たれ、砕かれた心。神よ、あなたはそれを蔑まれません」(17節)。この言葉が真実であった、というのがイエスの十字架の死である。へブル人の著者が言うように「キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました(へブル9:26)」「(キリストは)ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました(へブル9:12)」、というわけだ。イエスは、私たちの身代わりとして、私たちの罪の赦しのために、十字架を負い、神に見捨てられたと思うような辱めと悲しみと苦しみに打ち捨てられた。そのキリストをお遣わしになり、神と人の血筋も契約も守ろうとされる神の誠実さと愛を知ることができる。人は自分の罪の現実と向かい合わない限り、神と出会うことはできない。そして、罪が人の本性であり、変えがたいものであることを認識するならば、そこに神の聖霊の業を祈り求める他はない。神は、私たちが変わるために、何も要求されてはいないし、私たちのいけにえも必要としない。

4.応答

実に50篇の後にこの詩篇が置かれているのが興味深いところである。形式的、偽善的な礼拝からの決別を勧めるのが先の詩篇であった。神は全世界とその中にあるものはみな、神のものなのだから、ささげものなどは何も必要としない、ただ、苦難の日に、私を呼び求めよ、と語っておられる(50:8-15)

そして51篇は、50篇のように単に個人的な罪の悔い改めと救いの喜びの感謝に終わらない。18、19節は、どうもエルサレムの城壁が壊され、いけにえが行われなくなったときの事を物語っている。つまり、イスラエル人が捕囚から帰って来た時に、ダビデのこの罪の悔い改めの詩に、付け加えがなされ、国全体の罪の告白の詩としようとした、とされる部分である。もはや個人の悔い改めは国家的な悔い改めの詩と書き換えられて愛唱されたというわけだ。

ただ、ダビデの罪によってアブシャロムの謀反が起こり、王国が瓦解するような危機にあったことは確かなので、必ずしもそのように読む必要はないかもしれないが、礼拝において個人的な感謝をささげる、と同時に、この打ち破れた国会の回復のための祈りをささげる文末は示唆的である。目を転じて美しき日本と呼ばれる国に目を注ぐなら、そこには連日のように、悲しい犯罪と暴力、汚職が繰り返されている。そのような日本を神が深くあわれみ、美しき日本と言いうる回復を、心から、謙虚さをもって願う、それは深い罪意識に到達した者たちの集まりの祈りとすべきことである。神のあわれみと力を求めて、個人のみならず日本のために、世界のために祈る。そこに、礼拝の力強さ、祝福の深さもある、と言えるだろう。イエスは、ペテロに「立ち直ったら兄弟を力づけてやりなさい」(ルカ22:32)と命じられた。回復の経験は他の人に主の恵みを伝える力となる。神の偉大な御業が自分の内になされることを求め、その救いを味わってこそ、同じように神に背き救いを求めている罪人、そして国家に回復の祝福を告げる者となることができるのである(13節)。