詩篇53篇

53篇 願望ではない信仰的経験に生きる

<要約>

おはようございます。53篇は、14篇とよく似ています。しかし、内容に進展があることが特徴です。5節に注目しましょう。信仰は願望ではありません。それは経験され、確信となり、神への信頼を深めるものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

  1. 背景

一読して、あれ、既に読んだことがある、と思った人はいるだろう。そう、詩篇14篇とよく似ている。ただ、これをヘブル語の原語で読むと、神名には「ヤーウェイ」ではなく「エロヒーム」が使われている違いがある。学問的にはエロヒーム詩歌集と括られるものの一つである。つまり、詩篇には、いくつかの系統の詩歌集があり、それがまとめられたために、このような重複ができた、と考えられている。また、ヤーウェイは、どちらかというとイスラエルの民にとって重要な神名である。それがより一般的なエロヒームに換えられたのは、この詩がより公の場で読まれたことを意味しているとも言われる。学問的な議論は尽きないので、さっそくこの詩そのものを読み味わってみよう。

14篇は、アブシャロムが謀反を起こし、勢力を増し加えた時、あるいは、ダビデの生涯には記録のない非常に不運な出来事のあった時に詠まれた、と考えられている。復習になるが、14篇は、神は意図的に神に心を閉ざす愚か者が、神の民を抑圧し、食い物にされていくこと、そして苦しめられその計画が踏みにじられていくことを許さない、そのような個人的な神への信頼を詠んだものであった。後にそれは、パウロのローマ人の手紙に引用され、誰か特定の枠の中にいる人たちではなく、全人類が愚か者なのだとされている。確かに、悔い改めをもって神を信じたとしても、私たちは愚か者である性質を引きずっているのであり、神に意図的に心を閉ざしやすい者である自覚は必要なことだろう。彼らは愚か者かもしれないが、そのように見る私自身も愚か者の中から神のあわれみをもって救われたのだ、という謙虚さをもってとりなす者となる、それがパウロの引用に意図と言える。

2.53篇の特徴

ともあれ、私的に作られたものが、後に公用に使われるものとして書き改められたのが53篇とされている。後で書き改められたのだから、幾分時代を反映した修正もありうる。読み比べてみると、小さな表現で異なる部分はいくつかあるのだが、大きく違うのは5節である。それは、より具体的、結果的な書き方になっている。つまり、14篇では、まだ事が起こっていないが、53篇では、愚か者が「恐れた」、というのではなく「神があなたに陣を張る者の骨を散らされた。あなたは彼らを辱めた。神が彼らを捨てられた」ということが起こっている。つまり14篇が作られた後で「神はいない」と語る愚か者たちに対して何事かが生じている。ダビデの個人的な後日談があったのか、あるいは、53篇の著者が後の時代に経験したことを、踏まえてそのように修正した、のかもしれない。実際、53篇は、ヨシャパテ王の時代、アモン人とモアブ人の同盟が壊滅させられたこと(2歴代誌20:22-24)、あるいは、エリシャの時代のエピソードとして、アラムの軍隊が、神の超自然的なはからいで敗退させられたこと(2列王7:6,7)などを背景として書かれたとも言われている。

3.願望から経験へ

大切なのは、信仰は、願望ではない、ということだ。祈りで願われたことはやがて経験となる。祈りにおいては、実際に神の力を味わうまでに至ることが大切なのだ。

ある記事に、なぜ語学学習産業が成り立っているのか、ということについて、それは、将来ぺらぺらと外国語が話せるようになることを夢見ているが、決して身に着かない人たちがいるからだ、と書かれていた。なるほど、そういう見方もあるかと思ったが、キリスト教信仰も同じようなものとして考えられているとしたら、それは随分と残念なことである。やはり信仰においては、確かに神の救いと勝利を経験せねばならない。「ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように」と神に叫び、確かに、「神が、あなたに対して陣を張る者の骨をまき散らされたからだ。あなたは彼らをはずかしめた。それは神が彼らを捨てられたからだ」(5節)と勝利を宣言させていただくのである。

4.確信をもって歩む

悪人ばかり成功し、真っ正直に生きる自分の人生は全くぱっとしない、神を信じても意味がない、そんな風に考えてはならない。やはり信仰を持っているなら、確かに神の救いと勝利を経験したいところだろう。だから、そのように思う人はこう祈ったらよいだろう。「神よ、私はまだあなたの救いを経験していません。私はあなたの勝利を頂いていません。」「神はいないと言われている人達の中で、私は、神がおられることを何も示すことができていません」自分は霊的な破産者である、そんな現実を素直に訴えるのだ。そして、ひたすら神の力を仰ぐ、そして神の力を実際に味わうのである。漠然と神を信じる歩みではなく、確実に神の助け、祝福を味わう人生へと歩ませていただきたいものだ。