詩篇73篇

第3巻 73篇 神を堪能して生きる
 おはようございます。詩篇の第三巻に入ります。ダビデの詩がほとんどであった第一巻、第二巻に続いて、今度はアサフの詩が大方を占める第三巻となります。その最初に、アサフの個人的な経験からの信仰を語る詩が収められていますが、それは、実にキリスト者が、神の永遠性に繋がって生きているかどうかを問うものです。この世の現実を全く違った観点から見る力というのは、神の永遠性に繋がればこそと言えるでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈
 本日から詩篇の第三巻(73-89)に入る。第三巻の大部分(73-83篇の11篇)はアサフ、つまりダビデ時代の聖歌隊指揮者の一人(1歴代誌25:1)が作ったものである。
 「まことに、神はいつくしみ深い、イスラエルに、心のきよい人たちに。けれどもこの私は、足がつまずきそうで、私の歩みは滑りかけた」(1、2節)。詩篇73篇はアサフの生々しい個人的な信仰の経験に基づくものである。彼もまた、この世の生活で、悪人が栄え、それによって神を恐れる人が苦しめられる状況に直面した。これまでの詩篇は、そのような不条理は一時のことである、神を待ち望めと諭すものがほとんどであった。「悪しき者は、まさしく風が吹き飛ばす籾殻だ」(詩篇1:4)とあるように。しかしアサフは、そのようには見ていない。「実に、彼らの死には苦痛がなく、彼らのからだは肥えている。」(4節)。「彼らはいつまでも安らかで、富を増している」(12節)。彼らは一時的な存在ではないし、苦しみの内に必ずしも、後悔の内に死を迎えるわけでもない。神に打たれ、途方に暮れ、苦悩に陥いるわけでもない。その繁栄は最期まで守られるのである。
2.信仰をもてども現実は厳しい
 そして神に忠実な者は、どうかと言えば、アサフは自らの心境を語る。「ただ空しく、私は自分の心を清め、手を洗って、自分を汚れ無しとした」(13節)。神に悪しき者の繁栄を妬み憎しむ心のきよめを願って、宗教儀式に励んだものの、「私は、休みなく打たれ、朝ごとに懲らしめを受けた」(14節)。つまり真面目に神を求めたところで何になろう。神の前に誠実に生きても、苦しみと災いばかり、少しも幸せなことはない。「悪者の行いに対する報いを正しい人が受け、正しい人の行い対する報いを悪者が受ける」なんとも、神のなさることは不可解でわからない。自分など神の前から見れば、残飯を漁ってうろつきまわっている野良犬のように人間社会の背景に退いていたらよい、どうでもよい存在ではないか。だがそのように毒づいていたら、次世代の者たち、どんな証が立つのか。信仰の希望を語りながら、それが全くもって口先だけの現実(15節)。アサフの心境に、共感を得る人たちもいるのではあるまいか。
3.同じ現実を違ってみられるようになるかどうか
 ところがアサフは続ける。17節。「ついに私は、神の聖所に入って。彼らの最期を悟った」聖所は、ヘブル語の原語では複数形。つまり強意の複数で、「最高の聖所」を意味するが、。至聖所ではない。至聖所は、大祭司だけが年に一度、入ることができた場所なので、アサフがそこに入ることはありえない。アサフは聖歌隊指揮者の一人として、神の聖所を訪れることはしばしばであっただろうが、その日常の中で、ある日深い神の臨在に触れた、と言うべきだろう。そして、それまで目に映っていた悪しき者の現実の姿が、全く違って見える経験に導かれているのである。彼は告白する。悪しき者たちは、滑りやすい道を歩んでおり、滅びと背中合わせに生きている。そんな真理をよく理解もせず、「愚かで、考えもなく、神の前で獣のよう」(22節)であった自分に気づかされた、と。目にする現実は変わらずとも、その現実が違ったものとして理解されるのである。18節冒頭の「まことに」は、ヘブル語で「アハ」それは驚きを表現している。
実に人は弱く傷つきやすい。そして傷ついてしまって、恥ずかしいほどに、弁えもない人生を歩んでしまうことがある。だが、そうなる前に、神の聖所に入り、そこで神に語られる必要がある。上から「ついに、彼らの最期を悟った」という経験を得る必要がある。アサフは、悪人の繁栄は一時的であるという結論に戻っているわけではない。彼らは一生涯、安らかで、富を増し、長寿を全うし、苦しむこともなく死ぬこともあるだろう。しかし、彼らの運命は永遠の滅びであることには間違いない。けれども、神を信じる者を、神は滅びるままにされることはない。たとえ私たちが愚かさの中に迷い込んだとしても、神は、滅びの淵に立つ私たちの右の手をしっかりつかんで、引き戻してくださる。守ってくださる。人にとって決定的に重要なのは、誰と共にあるかである。悪しき者は、神より引き離されるであろうが、義しい者は、永遠に神が避け所であり、神が住まいである。このような永遠の時間枠の中で、人間存在の意義をはっきり確信できることがキリスト者の救いである(28節)。そうであればこそ、不条理な状況にあっても、神に生きる前向きさを持つことができる。私たちを待ち受けている永遠の賜物と神の素晴らしさを味わい、堪能して生きることが人生の最高の祝福である。神の聖所で悟りを得る(17節)、そのような転機のある一日を過ごすこととしよう。