詩篇84篇

84篇 幸いなことよ
おはようございます。コラ人による詩篇、42篇との比較で読むとまた、この詩の本来の意味がよく見えてきます。儀式を行うのでもなく、人と共にあることを喜ぶのでもなく、ただ、神ご自身を仰ぎ、喜び、その臨在のもとに憩う、そのような礼拝の大切さを教えられます。
今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.背景
 「コラ人による、賛歌」とある。詩篇42篇もコラ人の手によるものであり、それとよく似ている。42篇は、詩人が神の家から追放されたことを嘆く歌であったが、これは、神の家で礼拝する喜び歌っている。まだ神殿があることを想定して書かれているとすれば、この詩は、バビロン捕囚以前(BC586年)に書かれたものと思われる。ただ、それがダビデ時代のものなのかどうかは、わかっていない。
2.礼拝にて神を仰ぐ幸い
1節「万軍の主よ。あなたの住まいは、なんと慕わしいことでしょう。」この詩篇で注目されるのは、1節、3節、8節、12節と繰り返される神への呼びかけ「万軍の主」である。それは、全宇宙を創造し、それを支配しておられる全知全能の神を意味している。その万物の王である神が、契約の神として、私たちと近く親しくあり、その臨在のもとに憩うことを許されている。その恵みの素晴らしさ、感動はいかばかりか、ということであろう。だから神の神殿に住み、いつも神を讃えることが出来る人は幸いである、となる。
礼拝する詩人の心は、神へ真っすぐ向いている。だから続けて言う。「なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり、その心の中に、シオンへの大路のある人は」。原文に「シオン」ということばはない。新改訳は口語訳を継承して「シオン」という言葉を補足するが、新共同訳は、「心に広い道を見ている人は」とあっさり「シオン」を削除し、「見ている」を補足する。原文の直訳は、「その心の中に大路が」である。
詩篇42篇では詩人は、礼拝の共同体的側面に思いを寄せていた。「私が祭りを祝う群衆とともに、喜びと感謝の声をあげて、あの群れと一緒に、神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを」(4節)とある。そこには、神殿に連れ立って向かった交わりの喜びが語られる。確かに、ウィリアム・ウィリモンが『牧会の礼拝』という著書の中で、礼拝の共同体的側面に触れているように、礼拝には、一人ではなく共にひれ伏す群れにあることの幸いを覚える要素がある。しかし、この詩篇では、ただひたすら、万軍の主賛美し、求めて止まない心が語られる。実際「涙の谷を、泉の湧く所とし、力から力へと進んでいく」信仰者は、そのような礼拝において養い育てられるものだろう。
3.神との安息を大事にする
そのような意味で、礼拝が礼拝として守られ、祝福された時となっているであろうか、と考え、次週の礼拝に備えたいところだ。礼拝という儀式を献げに行くのではなく、また愉快な仲間と楽しい時を過ごすのでもなく、「あなたの大庭にいる一日は千日にまさります」(10節)と、神の臨在の下に憩う至福の時を過ごすために出かけるのである。1節「住まい」は、大きさや、豊かさを表す強意の複数形が使われている。物理的な空間よりも、そこに臨在される万軍の主の豊かさにこそ目が向けられている。雀や燕にさえも主の恵みは大きい、まして被造物の冠である人間においては、神の選びの民においては、というところだろう。
11節、神は太陽である。太陽の光は、地上の生き物を生かし育てる。また闇を一掃し、すべてを明るみに出す。つまり正しい裁きと支配の象徴である。マラキは義の太陽が昇る喜びを語った(マラキ4:2)。また神は盾である、全てを白日の下に晒す恐れ多い面がありながらも、人の隠れ場、身の避け所となる、安堵を与える面がある。だからこそ、この神と共にあること、それ自体の楽しさ、喜びがある。礼拝を楽しみに待ち望み備えたい。