詩篇94篇

94篇 主は王であると苦難にあって歌う
 おはようございます。先に読んだ詩篇93篇は一般原則、94篇はその実生活への適応です。礼拝の賛美で主は我が力、我が砦と声高らかに歌うことは簡単です。問題は実生活の苦難の中で、そのように日々告白しつつ、一歩一歩自らの歩みを進められるかどうかです。
今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.文脈と背景
 誰の作であるかはわからない。七十人訳では「週の第四日の、ダビデの讃美歌」と表題づけされているように、ダビデの作と解釈しているが、実際にはわからない。この詩は、93篇の生活適用という解釈がある。つまり、詩篇93篇は、神が王であることを賛美するものであるが、この詩篇では、罪と不正にまみれた社会の中で、なおも神が王であると告白するのである。そこで詩人が想定した敵かを巡り、イメージされる背景も異なってくる。敵は、ユダヤ人を迫害する外国人とするなら、捕囚期のもの、貧しい者を圧迫する国内の支配階級とするならば、背教のマナセ王の時代、といったように。具体的な背景を特定することはできないが、詩人は、世の不正と矛盾に対する、神の正しい介入を求めている。大切なのは、「いつまで、悪者どもは、勝ち誇るのか」(3節)。悪者に金も人も集まり、栄えていき、結局
信仰のある世界でもお金のある者や力のある者を従えた者が勝ち、と思われるような、神の正義が見えにくい状況において、なおも、神がまことの王として正しいことを行われるお方であると信頼していけるのか、詩人は、自らの確信を織り交ぜて、この詩を綴っていく。
2.構造
 1-2節は、神の裁きを求める祈りであり、叫びだ。「復讐の神よ」詩人は正義を求めている。マナセの背教時代であるとすれば、それは、信者たちの闇に光を放ってくださいと言うだけの衝撃がある。「悪しき者」は、5、10、14節からすれば、外国人のようでもあるが、6、8、20節からすれば仲間内である。つまり同じ信仰を持っている同族でありながら、その信仰を否定するような者たちが想定されている。3-7節は、その悪しき者たちの横暴を語る。そして8節以降、詩人は自らの確信を語っていく。
まず、詩人は、未信者、信者を含め、悪しき者の思い計ることがいかに「空しい」ことか、と言う。「空しい」は、伝道者の書の鍵語「空の空」の「空」と同じことばハベルが使われている。パウロは、そのことばの意味を汲んで、ローマ8:20において「被造物が「虚無(空)」に服した」様を語っている。実に、力や金を握った者が、時代をリードして統合、改革と奇麗ごとを並べ、弱者を切り捨て、正しい者を抹殺する、単に厚かましく横柄な、混乱と不条理、無秩序、支離滅裂の世界が繰り広げられていることがあるものだ。一体誰がこのような状況を、まともにしていくのだろうか(16節)。詩人は自らの確信を語っていく。たとえ現実社会がそうであっても、世の中と同じように私は腐り果てない。正しいことをなさる神は、見ておられる(9節)。大切なのは、主に心の平安を与えられ、この時を過ごすことだ(13節)。神が、この私を見捨てることも(14節)、その義が失われることもない(15節)。
3.私たちの神への賛美
だからいかにして、試練と思われる時を過ごすかが重要だ。詩人は、神に戒められ、御教えを教えられることを重視している(12節)。み教えは、ヘブル語ではトーラー、十のことば(十戒)を意味する。十のことばが教えるように、世の中はどうであれ神と人を愛していく。そして主の恵みを信頼していく。「主はわがとりで、わが避け所の岩」とダビデ的に告白する人生を歩む(22節)。七十人訳がダビデの作とするのはこの言葉の故だろう。ダビデがどのように神を信じる者たちの不正の中を生き抜いたかを思い起こしたいところだ。ただ23節、「私たちの神」という複数形に注目しておきたい。神は私たちの個人的な復讐をなさる方ではない。神の報復は、民全体の正義と平和の実現のためになされるのである。