詩篇98篇

98篇 預言的賛歌

おはようございます。ラテン語でカンターテ・ドミノ(主に歌え)と言われる作曲のもとになった詩篇です。多くの美しい宗教歌曲が作られていて、それらを聞いていると、紙面で熟読黙考する以上にイメージが膨らむように思います。主に栄光あれ!今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

表題は「賛歌」と単純である。「新しい歌を主に歌え(ラテン語でCantate Domino canticum novum)」で始まる、この一節からたくさんの美しい歌曲(カンターテ・ドミノ)が作曲されている。今日は時間があったら、You tubeで、カンターテ・ドミノに浸ってみてはどうか。この一節は、詩篇33、96、149篇の冒頭にもあり、ハスラー、モンテベルディ、シュッツなど、ルネッサンスからバロック初期の作曲家、また現代の作曲家も創作しているのであるが、それほどに愛されたこの一節を、黙読熟考ではなく、五感を通して味わってみたいところである。聖書を全身で体得したい、というのが我が願いである。

2.賛歌の根拠

さて、この詩篇は、96篇とよく似ていて、王である主の素晴らしい御業を讃え、裁き主として来られる終末の日を待ち望みつつ、喜び歌えと宣告している。前半の1-3節は、賛美の根拠が語られる。それは、主の奇しいみわざ(1節)、御救い(2節)、そして、恵みと真実(3節)にある。奇しいみわざは、奇跡的な神の介入を表す語であり、一説に、バビロン捕囚からの解放を背景としている、とされる。だから、この詩篇にギリシヤ語七十人訳が「ダビデの賛歌」と表題を付しているのは、ミスマッチなもの、と言われるところである。

2節の救いは、1節の勝利と同じ言葉が使われている。ヘブル語では救いも勝利も同じである。というのも、味方に関して言えば「救い」は、敵に対しては「勝つ」ということだからだろう。大事なことは、神の救いは、神の義の実現であること、そして神の誠実さを現れであることだ(3節)。97篇では、道義的な歩みが進められたが、それに続く形で、主の誠実さが繰り返されるのも興味深いところである。神の救いは気まぐれなものではない。契約に基づく、誠実さの実現である。私たちの主は「イスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる」(3節)お方である。自分自身に何が起こるか、ということへの関心以上に、主が自分にどのように、どのようなタイミングで、ご自身の約束を実現させてくださるのか、という関心が信仰そのものなのである。

3.主に喜び叫べ

詩人は後半、主への賛美を奨励する。クアラルンプールで、オーケストラボックスを講壇の前に設置している教会を訪問したことがある。賛美チームどころではなく、オーケストラボックスである。だが聖書の礼拝も、壮観である。「竪琴に合わせ、ラッパに合わせ、角笛の調べにのせて~なりとどろけ、手を打ち鳴らせ、こぞって喜び歌え」とある。聖書の礼拝には、一人の人間がひれ伏して、というイメージもあるが、皆が一体となってあらゆるものを総動員して喜び叫ぶイメージもある。そのような意味では、教会の賛美も、しっかり教えられて聖書的に高められ、整えられていかなくてはならない。教会音楽主事という専門職が必要とされるゆえんだ。実際礼拝こそが教会の宣教の業そのものであるのだから、洗練されたカンターテ・ドミノが追及されてもおかしくはない。

9節は、賛美の第二の根拠である。義も公正も無き、罪にまみれたこの世とは違う、新しい秩序のある世界が来ようとしている。詩人が、キリストの来臨や終末の再臨を理解していたとは思われないが、真の聖書の著者である聖霊は、その終末的ビジョンを意図せずに詩人に語らせたのだ。アラム語訳聖書が「預言的賛歌」と表題を付したのは、そのような解釈に基づく。確かに神の義がもたらされるその日は(ローマ8:19-21)歓喜に満ちた時である。