詩篇111篇

111編 歴史的な主のみざわを称える

おはようございます。この詩篇は、アルファベット詩とされるものです。各節の冒頭がアルファベット順に整えられている詩です。それだけイスラエル人の信仰の核心となるべき内容があると言うべきで、キーワードは「主のみわざ」です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

ヘブル語で読むと、この詩篇は、最初のハレルヤを除いて、各行の冒頭がヘブル語のアルファベットで揃えられている、いろは歌になっているのがわかる。ただ新改訳2017では、残念ではあるが、それを視覚的に理解することはできない。新共同訳では(アルファベットによる詩)と冒頭にカッコ書きが据えられる。

また次の112篇も同様で、どうやらこの二つの詩は対になっている。実際、111篇は、神についてそのみわざを称え、112篇は、神を称え、神を畏れる人の祝福を描いている。

七十人訳やラテン語訳の聖書では、ハレルヤに続いて「ハガイとゼカリヤの帰国について」と表題が付け加えられていることから、捕囚期後のものであると考えられている。

2.主にある連帯感

1節「直ぐな人の交わり、主の会衆において」新共同訳では「正しい人々のつどい、会衆の中で」となっている。「直ぐな人」、「正しい人々」と訳されたヘブル語の形容詞はヤシャル。「まっすぐな道」(詩篇107:7)といった組み合わせで使われることが多い。「直ぐな」はそういうイメージがある。そして、倫理的、宗教的に、正しい人間の行為を言い表すのにも用いられる(伝道者の書7:29)。ここでは、義を求め、それを行うことに関心を持ち、道徳的にも、実践的にも正しい、会衆の性質を言い表しているのだろう。大切なのは、その連帯感だ。共に、主の民として主の正しさの中に生きる者の間にあって、主に感謝をささげる連帯感である。私たちの礼拝において重要なのは、まずこの連帯感を味わうことだろう。

3.主の御業を称える

続いてこの詩は、神の御業を称える。その御業はどうも、出エジプトのことを指しているようだ。だから「奇しいみわざを人の心に刻まれた」(4節)というのは、過ぎ越の祭りのことで、「食べ物を与え」(5節)というのは、マナで養われた荒野の経験のことを言うのだろう。「契約」(5節)は、アブラハムおよびシナイ契約のこと、「国々のゆずりの地を、ご自分の民に与え」(6節)は、カナンの地に導かれたこと、「御民のために贖いを送り」(9節)は、エジプトからの脱出のこと、また捕囚期以降に書かれたのであれば、捕囚からの解放も、重ねられている、と考えられる。

このように、出エジプトの記憶を思い起こしつつ、捕囚からの解放の恵みを味わい、「主のみわざ」を称え、主への信頼を詠う、これが、旧約の民が共有した聖書の基本的な価値観である。さしずめ、私たちにとっては、イエスの十字架の記憶を思い起こしつつ、罪からの救いの恵みを味わう、ことになる。キリスト教信仰は、歴史的な事実に立つ。歴史的な根拠に自分の信仰を築き上げていく。つまり、8節「それらは世々限りなく保たれ、真実と正しさを持って行われる」と神の御業の繰り返しを、堅く信じていく。そのような意味で、主は契約をとこしえのものとされたのである(9節)。神の御業は個々バラバラに起こっているわけではない。一つの揺るがない歴史的な大事件を軸とし、その小さな繰り返しとして継続している。出エジプトが基本であり、捕囚がその繰り返しであり、十字架の御業もそうであり、それをもとに、私たち自身の信仰的な課題の解決もある。歴史には、神のみわざの繰り返しが刻まれている。だからこそ、私たちは神を畏れなくてはならない。神を恐れる時に、「みな賢明さを得る」とある。優れた思慮を得るということだろう。いつでも神に心を開き、神に聴き、悟りのある歩みをしたいものである。