詩篇123篇

123篇 あわれんでください

おはようございます。巡礼の歌が続きます。礼拝に向かう途上、何を求めるか。やはり神のあわれみ、というべきなのでしょう。神のあわれみが、私たちの思いを超えた明日を実現する、と期待を持っていきたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.目をあげる

1節「あなたに向かって、私は目を上げます」助けを求める信頼のまなざしについて語っている。新約聖書においても、ヘブルの著者が、勧めている。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」(ヘブル12:2,3)。まずは心の目で真っ直ぐに、神を見つめる。それが神とよき時を過ごす基本である。

2節「ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています」なぜ「手」なのか。日本人なら、主人の「顔」ではないか。「手」と訳されたヘブル語は、「手掌」「手首」「前腕」と全体を含めて、区別していない。いわゆる手という物体よりも、動きのある手全体に意識が向けられているのだ。実際、「手」には、象徴的な用法があり大まかに「力」を意味する。出エジプト記では、「わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただなかであらゆる不思議を行い、エジプトを打つ、その後で、彼はあなた方を去らせる」(出エジプト3:20)と使われている。「救いの手」「裁きの手」「御手の業」と、象徴的に意味されるものがある。手に目を向けるのは、神ご自身の動きに注目することになるのだ。

2.主のあわれみを求める

「私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれんでくださるまで」実に大切な原則がある。私たちの目は、具体的な助けと可能性を求めて、自然に地の人々に向かい、天の御座についておられる方に向くことは少ない。また、仮に神に真っ直ぐ助けを求めはしても、「あわれまれるまで」執拗に求め続ける者は稀である。風を見て、沈みかけて、怖くなったペテロの(マタイ14:30)ように、私たちは神に目を留め続けることができないでいることが多い。だから、信仰的な成熟は、まさにこうした姿勢がしっかり身に着くことだと心得たい。

3節「あわれんでください、主よ。」詩人は「あざけり」と「さげすみ」に囲まれていることがわかる。一体誰からそのような嘲笑と侮蔑を受けているのであろうか。「奴隷」が比喩に用いられている点や、「私たち」という複数人称などから、おそらく捕囚期後、具体的にネヘミヤ時代、サマリヤ人の妨害に囲まれながらエルサレムを再建していた時代や状況を反映している、と考えられている。真に神を敬う者が、敵意の目にさらされ、罪人たちによって卑しめられ、苦しめられることはあるもので、それが長く続けば続くほどに、情けなく、また自分の将来に望みが持てないことがあるだろう。そうであればこそ、そんな状況から目を転じて、神を見続け、主のあわれみによる回復を求めることが大切なのである。何事かをなす神の恵みにこそ、いよいよ期待を寄せていくことだ。

実際、この歌が巡礼歌とされていることの意義は大きい。というのも、彼らは、あわれみを求めて、あわれみを受けた経験を思い起こしているからである。自分たちの祈りに確かに神が応えてくださった、歴史的な出来事を思いめぐらしているのである。私たちの自分史の中にも、神の確かさを感じ取れる経験を積み重ねていきたいものである。信仰は継続であり、神のあわれみを受けることの積み重ねなのである。