詩篇129篇

129篇 苦難を積極的に受け止める

おはようございます。背景としては、バビロン捕囚、そして捕囚帰還におけるエルサレム再建の苦しみがあったのだと思われます。そのような中で、主の誠実さのゆえに、イスラエルが祝福されたことを思い起こしつつ、主への感謝と共に歌う歌と言えるでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

主語は、「私」と一人称である。しかしこの詩は公同礼拝用の歌とされているように、ここで述べられている苦しみは、どうやら個人的な経験ではない。それはむしろ「さあ、イスラエルは言え」と、詩人が呼びかけているように、「私」という一人称でイスラエル全体の経験を語っている。つまり述べられているのは、イスラエルの歴史的な出来事と考えてよい。

となれば「耕す者は私の背に鋤をあて、長いあぜを作った。」(3節)というのは、具体的にどういう経験なのだろう。恐らく、イスラエルがエジプトで奴隷にされた経験か、アッシリヤやバビロニヤにおいて捕囚された経験を語っているのではないかと推測される。実際、イザヤとほぼ時を同じくした捕囚期前の預言者のミカは、北イスラエルと南ユダの滅亡を預言し、「シオンは、~畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり~」ということばを残している(ミカ3:12)。

人の人生は、自分の意に反して、全く思わぬものとなっていくことがある。不条理なもので、それは全くどん詰まりの人生に、自分が生まれてきた意味を全く見いだせないことであったり、別の選択に気づいていさえすれば、もっと違った人生になっていただろうに、と思ったりするようなことでもあるだろう。イスラエルの民は、エジプトの奴隷やバビロン捕囚を経験したが、それは鞭打たれ背中にミミズ腫れができるほどの虐げにさらされることで、まさに「耕す者は私の背に鋤をあて、長いあぜを作る」暴力を経験することであった。

けれども、人生が不本意なままに終わることはない。不本意な横暴が許されたままでいることはない。2節「彼らは私に勝てなかった」とされる。要するに、イスラエルは捕囚のまま廃れ、失われてしまうことはなかった、ということである。そして、4節「主は、正しくあり、悪者の綱を断ち切られた。」神は正義である。

2.伸びないうちに枯れる

後半は、聖書学者によっては、別の経験を語っているとされる。5節、「シオンを憎む者はみな、恥を受けて退け。」つまり、捕囚から解放された彼らは、別の敵、つまり「シオンを憎む者」に出くわすのである(エズラ4章、ネヘミヤ2:10~)。しかしながら6節、「彼らは伸びないうちに枯れる屋根の草のようになれ。」このイメージは、イザヤ書にも出てくる。イザヤは全く同じイメージを用いて、アッシリヤの王セナケリブに対する神の裁きを語っている(37:27)。となれば同じ経験と考えても差支えない。むしろイザヤとミカが同時代であるとすれば、その時代背景を反映した詩と考えてよいのだろう。

ともあれ、風によって種が運ばれ、屋根に草が生えることがある。誰の目にもよく目につくその草は、日が照ってくれば自然に枯れてしまう。だから7節「そのようなものを刈り取る者はつかまず、束ねる者も抱えることはない。」イスラエルの敵は、岩の上に落ちて育った種と同じく、一時的な成長で終わってしまうのだ(マルコ4:5)。8節「通りがかりの人も、「あなたがたに主の祝福があるように。主の名によって祝福あれ」とは言わない。」ルツ記2:4では、ボアズが刈り入れの人に挨拶を投げかけているが、まさにそのイメージだ。

大切なのは、人生には不本意で不条理に思われることは多い。しかし、神はそのような中で、私たちの歩みをまっすぐにしてくださる。そして、主は正しいお方であるから、悪しき者の横暴をそのままにされることはない。また悪しき者にいつまでも主の祝福を置かれることもない。主の誠実さに信頼しつつ、歩ませていただこう。