雅歌5章

5章 愛は失われない
おはようございます。一種舞台監督になったつもりで、雅歌を読んでいくと、面白さがさらに増し加わります。微妙な女心と、それを表現する舞台装置、場面転換、照明の切り替え、そんなことを考えながら読むと、これが「歌の中の歌」と称されたのもわかる気がします。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.転落
2節から、第四部に入る。ここで、いささか文脈が複雑になる。登場人物は、2人なのか、それとも3人なのか。ソロモンと羊飼いは同一人物なのか。それとも別人なのか。2人説を取るならば、雅歌はソロモンと女の恋愛詩となり、そこに合唱隊としての「エルサレムの娘」が加わっている、と考える。他方3人説と取るなら、女と彼女を愛する者つまり羊飼いの恋愛劇にソロモンと合唱隊が加わっている、と考える。
 しかし、3人説は、女と羊飼いの愛を、ソロモンが富と快楽によって誘惑し引き裂いて奪おうとしている筋書きになり、ソロモンを悪役にしてしまう難しさがある。だから2人説で考えるのがよいのだろう。そしてこの5章は、頂点に達した二人の愛が一挙に谷間へ下る大きな場面転換となっている。世俗的なドラマであれば、結婚前に、二人はくっつくのか離れるのか、ハラハラドキドキのローラーコースター的なストーリーが重ねられるところであろうが、雅歌では結婚後にその山谷が描かれるのである。3章同様に、女は夢心地の中にいる。いや妻は待たされていた(2節)。仕事が遅かったのか、婚約時代は、遠くからでも足繁く通ってきた男が、今や妻を放っておいている。だから妻は戸を叩く音がしても冷たい態度を取るのである(3節)。だが危険な夜道を戻って来たのだ、女は、気を取り直して夫を入れようと立ち上がる(4節)。しかし時遅し、夫はどこかへ立ち去っていた。気も狂わんばかりに、女は夫を追って夜の町へと飛び出すと、夜警に捕まえられて、売春婦のように扱われてしまう。
2.やはり愛している
 9節、エルサレムの娘たちが応答する。女心もわからない鈍感な男の何がよいのか、と。10節からは、男が女の美しさを歌った叙述歌(4章)に平行し、女が男の魅力を語るものとなっている。先の叙述歌と同じように、男への賛辞は、頭から始まっている。「輝いて赤く」は、「紅顔の美少年」に匹敵するイメージがある(1サムエル16:12)。「なつめ椰子」に例えられる髪は黒、「乳で洗われる目」は白である。白い鳩は、古代において神々に献げられるものであった(12節)。頬を「花壇」と表現するのは、おそらく、次行の「唇」と合わせて抱擁で感じる、香のよさを物語っているのだろう。男の腕、からだ、足は種々の貴金属や鉱石で表現されている(14、15節)。それは、パレスチナのすべての山々で、ひときわ巨大な杉の木で威容を誇るレバノン山のごとし、とされる。もはや女にとって男の「すべてがいとしい」のである。愛は理屈ではない。「その口は甘美そのもの」と語る女の心には、もはや男を連れ戻し、奥まった部屋ですることだけがある(16節)。女の答えに動かされ、二人が再び一つになることを願うエルサレムの女たち(合唱隊)が、登場する(6章)。(つづく)