イザヤ書3章

3章 頼るべきは目に見えぬ神である
おはようございます。コロナ禍の中で、本当に人間は何を信じ、何を頼りとして生きるべきかを思わされるところでしょう。TVに登場する様々な指導者の言動を見ながら、真にこの時代を動かしうるお方は誰なのかを考えさせられるところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.自ら滅びを刈り取る
 日々人は、何を頼りとして生きているのだろうか。この疫病の時代に、何を当てにすることができるのか。イザヤの時代、人々は、軍隊、裁判官、預言者、長老、法律家、占い師、と様々なものを頼りとし、支えとして生きていた。しかし、1節、神は、人が頼りにするものを除かれるという。それは、まことの神を知るため、だれがあなたの本当のいのちの支え手であるかを悟らせるためである、と。
 まことの神が支え手であることを知ろうとしないのなら、期待はずれのことが起こるだろう。指導者を頼りにしても、神は真に知恵ある指導者を取り去られる。そして気まぐれで、中身のない指導者が実験を握るようになるだろう(4節)。正義はないがしろにされ、不法を行う者が政治を指導するようになる。その結果、国は無政府状態となり、混乱に陥り、支え手と頼ったものに振り回される苦渋を味わうことになる。しかしこれらは皆、イスラエルが主にそむいたため、神を信頼しなかったためである、という(8節)。自ら墓穴を掘ったのだ、というわけだ(9節)。
 では、その様な状況にもう救いはないのか。イザヤは言う。「正しい人は幸いだ、と言え。その人たちは自分の行いの実を食べる」(10節)私たちは一度歯車が狂ってしまえば、もう先はないと思ってしまう。実際、どんなに自分の人生を修復しようとしても、益々坂を転げ落ちるのみで、回復の望みはどこにもないように思えてしまうだろう。しかし、そのような絶望感にあっても、神を恐れ、正しき選択をするなら、そこには望みがある。
2.まことに裁く神がおられる 
問題は、神なんてと思う、人間の奢った心である。まことに、貧しい者を顧み、不正を犯す者を裁く、神がおられることを信じることができるか(15節)、である。イザヤは、神の言葉を伝える。国が荒廃するのは、あなたがたの指導者の責任である、と。指導者は、ぶどう畑を野獣から守るべき職責にあるにもかかわらず、自らそのぶどう畑を食い荒らした、と。神はその責任を問われる、という(14節)。この神にこそ、望みを置くかである。指導者たちと同様、神を覚えず、気の向くまま浪費三昧に生きた金持ちの女たちを神は決して見逃すことはない。彼女たちが、ネックレス、ブレスレット、香水など、どれほど身を飾りたてようとも、もはや男を引きつけることは出来ない。病に冒され、美しさは跡形もなくなり、夫も何もかも失われ、ただ恥辱と屈辱に泣き伏すだけであるという(16-26節)。
 神は正しい方である。矛盾に満ち義は失われたと思う社会状況であっても、確かに正しい裁きを行われる。確かに、帳尻が合わされる。頼りとすべきものを頼りとする。神に立ち返り、神をこそ頼みとし、神の義を求めて歩む歩みへと導かれたい。