イザヤ書5章

5章 神を恐れるに乏しい
おはようございます。聖書について書かれたものを読むか、聖書を引用した思想書を読むかで、聖書を読んだ気になっている人は多いものです。それも神を求める道の一つかもしれませんが、聖書そのものが何を伝えているのか、聖書に向かいたいところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ぶどう畑の歌
 イザヤが詠う。イザヤの愛する神が、ぶどう畑を持ち、そこによいぶどうを植え、その実りを楽しみにしていたが、結果は、酸いぶどうができてしまった、と(1-3節)。そこで神は、ぶどう畑の垣根を取り去り、野生動物が侵入して踏みにじり、荒れ果てるままにされる、と言う。それは後のアッシリヤがイスラエルに侵入し、さらにイスラエルの国民が我欲の中に滅びる様を預言している。しかしそれは決して、神が彼らを見捨てたことを意味しない。というのは、求めない人間を鞭打って従わせることはできないからだ。その人自身が自ら気づいて立ち返るまで、待つことも愛である。
2.わざわいなるかな、ユダの罪
8節からは、当時の国家の具体的な罪が語られる。一つは、富める者が、貧しい者を搾取する貪欲な世界になってしまった(8-10節)。土地と家を拡大しても、収穫は少ない。十ツェメドは一日がかりで耕せる面積であるが、そこで採れるぶどうは、わずか2リットル、6本入りのペットボトル2ケース分。その約10倍の量の種を使いながら、収穫できた穀物の量はその十分の一。全く当てが外れるようなことが起こる、という(10節)。続いて、金持ちたちの豪奢で享楽に耽る罪(11-17節)。酒や音楽が悪いのではなく、弁えの問題である。人は、与えられた財、時間、才能、賜物を、神のみこころにそって正しく用いなくてはならない。それらは、神の恵みによって与えられたものであるから、その恵みを弁えなくてはならない。わざわいなるかな、というわけである。ここは、ヨハネが黙示録で描いた大淫婦に対する裁きに通じるところではないか(黙示18:16,17)。三つ目に嘘偽りの罪がある(18-20節)。それは白を黒と言い、黒を白と言うような世界である。結局、絶対的な神の存在を否定するなら、すべては相対化し、力のある者の主観がまかり通る世界となる。それは道徳的価値の転倒であり(20節)、自己慢心の世界である(21節)。そのように度を超す(22節)悪人が正義を振りかざし、正しい者が踏み躙られる世界はわざわいだ(23節)。
3.神の裁き
そこに神が裁きをもって介入されるのは、至極当然なことだろう(24節)。「地震」(25節)も「嵐」(30節)も、神の臨在とその力の現れを象徴する。しかしその間に挟まれて、別の力(26-29節)が描かれている。いわゆる神が裁きの道具として送り出された略奪者たち、侵略者のアッシリヤを預言している。アッシリヤの軍隊は、二輪の戦車を持ち、高速で走るそれは、とどろき、うなり声に等しき脅威をもたらした。ところでヨハネは、新約聖書の黙示録の中で、同じぶどう酒のイメージを用いて神の裁きを語っている(14:19)。イザヤの預言は、決して過去の預言に留まらず、今なお、正しき神がおられることを語るのである。