イザヤ書6章

6章 イザヤの召命
おはようございます。イザヤの召命の記事としてよく読まれるところです。ただ、断片的に読んでいる方々は、前半のみに注目し、後半を読み流していることがあるでしょう。6章全体は、ヨハネの黙示録のメッセージに重ね合わせられるものがあります。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.イザヤの召命
イザヤ召命の記事である。本来ならば、この書の最初に来るはずのものである。
 「ウジヤ王が死んだ年」は、BC740年もしくは739年のことであろう。なぜウジヤは死んだのか。祭司以外には入ってはいけない主の家に入り込んだためだ(2列王15:5)。彼は神に裁かれ、ツァラアトに侵され、隔離されたままに死を迎えた。それは、イスラエルの民の病める状況を象徴的に言い現している。そこでイザヤは、その地の現実から、天高くあげられた王座におられる主を見たという。イザヤは幻を見ている。丁度ヨハネが黙示録で、主の幻を見、主の黙示を受け取ったのに似ている。ただ、イザヤの場合は、地上と天高く、と神との間には距離がある。ヨハネは違う。ヨハネは同じ地上で、主の幻を見、預言のことばを託され、その足元に倒れていたという。地上で神を体験したヨハネであればこその、神との距離感なのかもしれない。ともあれ、イザヤは神の聖なる臨在にはっきりと触れた。そして、そこには大声がとどろいた。御使いの声であるが、状況は、「ラッパの音のような大きな声」(黙示録1:10)を聞いたヨハネのそれによく似ている。
 大切なのは、主の聖なる臨在に触れたイザヤの告白と経験である。イザヤは自分を汚れた民と同一視し、自分がウジヤ王同様に死すべき運命にあることを自覚している。しかし、主は、あわれみをもって、イザヤを燃えさかる炭によって聖め、咎を取り除き、罪を赦してくださった。イザヤは、今、その証人として立つように、召されている
2.主の証人として立つ
「だれを遣わそう。だれがわれわれのために行くだろう」(8節)人は、真に神を知るなら、その尊い存在をやはり伝えずにはおられない。まことに正しい神が世におられることを知るなら、その神の正義に生きることが、人間の当たり前の務めであると自覚せざるを得ない。しかしその秘密は、誰にでも明らかにされるものではない。神のあわれみによって、その存在に気づかされた人々が、口伝えの努力をもって広めていくものである。しかも、それは世の関心、世の欲求とは真逆の事であるから、簡単ではなく、むしろ困難極まりないものである(9、10節)。そこで11節、再び黙示録を思い起こす場面が登場する。黙示録には、終末的状況の中で、宣教活動が困難を極めいよいよ殉教者が増えていく状況に、「いつまでですか?」と叫び声があがる場面がある(6:10)。ヨハネでは、「殉教者の時が満ちるまで」とされるが、ここでは具体的に、ユダ南王国がバビロンによって滅ぼされるまで(11節)であり、その意図は同じである。というのは、黙示録は、この鍵ことばを中心に全体のストーリーが展開し、キリスト者の宣教と証的生活が勧められている。イザヤもまた、ユダ南王国が存続する限り、そして世が続く限り、神の恵みを証することを命じられている。