イザヤ書8章

8章 主こそ恐れ、主に信頼せよ
おはようございます。改めて文脈に沿って、聖書が語るところを理解する大切さを覚えさせられます。7、8章はインマヌエル預言、メシヤ預言と先入観を持って読まず、当時何が語られ、さらに今の時代に何を伝えているのかを理解したいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.インマヌエル預言
 イザヤの第二のメッセージは、ダマスコとサマリヤの滅亡である。イザヤは、おおきな板に「マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため」と書くように命じられた。書体は、普通の文字で。つまり、誰もが読める書体で、ということで特殊な書体もあったのだろう(出エジプト32:16)。言葉の意味は、直訳すれば「すばやく、分捕り物、さっと、獲物」(1節)である。略奪の強いイメージがある。そして女預言者である妻が子を産むと、イザヤはその文言を子どもの名とするように命じられた(3節)。それは、先に預言された、アラムの首都ダマスコとイスラエル北王国の首都サマリヤの滅亡が、もう間もなく(子どもが言葉を覚える前に)実現するためである(7:16)。確かにダマスコはBC732年、サマリヤは722年、アッシリヤの侵略によって滅亡した。問題は、7章後半でも預言されたように、そのアッシリヤの勢いが、ユダ南王国にも押し迫ることであった。ただ、神はアッシリヤに対して、ユダに対する最後の一撃を許されなかった。猛威を振るう強国アッシリヤも神の鎖付なのである。神の都エルサレムはインマヌエル、つまり「神が私たちと共におられる」土地だったからだ(8節)。イスラエルを囲む国々がどれほど企てを立て、裏切りを犯そうが、神が守ってくださる。神に希望があることを伝えている(10節)。アラムも、イスラエル北王国も恐れるべきではない「主こそ、あなた方の恐れ、主こそ、あなたがたのおののきとせよ」と言うわけだ(12節)。
2.イザヤ家の証
 だが、イザヤのことばはアハズ王にも、イスラエルの民にも受け入れられなかった(14節)。だから、神は、預言のことばを封印する、つまり、弟子たちに渡し、将来のために保存せよ、と言う(16節)。17,18節は「我と我が家は主に仕えん」(ヨシュア記24:15)と語ったヨシュアのごときイザヤ家の信仰告白というべきだろう。確かに、「私と、主が私にくださった子たちは」と親子三人の名を綴り合せれば、それは「ユダヤ不信のために間もなくアッシリヤの侵略を被るが(マヘル・シャラル・ハシュ・バズ)、滅亡により残された者は、神に帰ってくる(シェアル・ヤシュブ)。なぜなら主は救いだからである(イザヤ)。」という意味となり、家族一丸となり主を証ししているのである。
 19節以降、9章1節までが、ヘブル語聖書では、散文体で一つの区切りである。国難にあってイスラエルの民は、かつて危機に遭遇したサウル王同様に(1サムエル28:8)迷信的に霊媒の解決を求めた(19節)。しかし、求めるべきは神ご自身である(20節)。734年アッシリヤはイスラエルの北部を占領、そしてガリラヤ、ギルアデまで南下した(9:1)。実にそれは暗黒に等しい時代をもたらしたが、神のことばに救いの光があった。