イザヤ書12章

イザヤ書12章 神に歌おう
 おはようございます。11章の続き、第一巻のしめくくりとなるところです。滅びの中からの解放、理想の王国の希望を語り伝える末尾に相応しい感謝の賛美です。しかもそれが宣教的な賛美であることに注目したいところです。賛美と宣教は一体なのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.感謝の賛美
 11章の続きとなり、第一巻のしめくくりとなる。理想の王国の希望を語り伝える末尾に相応しい感謝の賛美が添えられたというべきだろう。メシヤ預言を含む、ユダに対するメッセージの結論となっている。
かつてエジプトを脱出したイスラエルの民は次のように賛美をささげた。「主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。」(出エジプト15:2)第二の出エジプトであるバビロン捕囚からの解放においても、同じような主への賛美がある。「あなたは私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださった」(1節)、と神の大いなる御業により、起こりえないことが自分の身に起こることを思えば、そこには感謝があり、賛美がある。
果たして、この賛美は、具体的にどのようになされたのだろうか。12章の文言は、交唱の形でイメージされる合唱であったのではないか、と推測されている。つまり、一人のリーダーが歌うと、それに会衆が様々な形で和して応える合唱である。実際、1,2節は賛美する者は「あなた」であるが、3、4節では「あなたがた」になり、6節では再び「あなた」となっている。また1、2節では神への告白と独白であるが、4-6節では、会衆への語り掛けとなっている。この賛美がどのようになされたのか、正直その構成のイメージが湧きにくい。というのも、この箇所の記録は断片的で、一部に過ぎない、とも考えられているからだ。しかしそれは、ソロあり、合唱ありの壮大な、大合唱の台本の一部である。主の救いを思い心から湧き上がる感動を歌う、その一部が、伝えられていると言うべきだろう。
2.宣教的賛美
さらにこの感謝の賛美で注目すべきは、「そのみわざを、もろもろの民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。」(4節)、「これを全地に知らせよ」(5節)とあり、宣教の使命が詠われていることだろう。神への賛美は、それ自体が証であり、宣教である。しかし、自らの救いを語り伝える使命が詠われる。
賛美は、ただ情緒的な満たしを求めて歌う機会とされることがある。あるいは、カラオケのように発散する機会とされてしまうことがある。しかし、賛美は信仰者の歌なのだから、それ自体が宣教の機会となることは間違いないし、だからこそ宣教の使命を歌うことも起こりうる。宣教無き信仰はありえない。教会と自宅を往復するのみの信仰はありえない。主は、「あなたの中におられる大いなる方」(6節)である。そのような確信のあるところに、しょぼくれた献げもの、自己満足的な賛美、心のない祈り、証無き生活はありえないのである。主に対する深い感動に揺さぶられる歩みを大事にしたいものである。