イザヤ書35章

35章 主の贖いの希望を得る
 おはようございます。主を信じる者には、世にある回復の希望があります。しかしそれ以上に永遠のたましいの贖いの希望の素晴らしさもあります。弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせ、この地上で回復されると同時に、永遠の恵みをしっかり手にしたいものです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.捕囚回復の預言
 34章に続く、結論のまとめ、イザヤ書前半のまとめでもある。34章では裁きが語られた。その言葉は真実であると注意が喚起された。35章では、裁きに続く救いと希望が語られる。実際には、バビロン捕囚からイスラエルが回復される時代が来ることを語っている。それは荒野と砂漠の荒廃したイメージから、水が湧き出し、川が流れ、焼けた地が沢となり、花咲き乱れる、楽園のイメージとなっている。
 裁きは、恐怖を煽るテーマであるが、その限りではない。つまりそれは裏面、救いであり解放、希望である。だから捕囚の落胆の中にあって「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ(3節)」と促される。「手」は力、「ひざ」は安定性と持続性を意味する。「強くあれ、恐れるな」と神の励ましを持って、互いに支え合うことだ(4節)。「復讐」は、神の民の敵に対する報復であり、「報い」は彼らが受けた悪からの救いである。
ただ当時このイザヤの言葉は、時期尚早、誰も理解しえないものであったことだろう。しかし実際に、エルサレムがバビロンに滅ぼされ、捕囚の苦しみを味わうことになった人々は、イザヤの言葉の真実さを思い起こし、このことばに希望を繋いだと言える。
2.贖いを受け入れる
そして捕囚帰還の恵みに実際に与った人々は、その神の栄光をはっきりと認め(5節)体にも力を与えられ、心から神を賛美し、それからの生涯すべてを神の栄光のためにささげ、用いたいと願ったことだろう(6節)。神のいのちの水は、豊かにその人を潤し、エルサレム再建の希望へと向かわせられたからである(7節)。
エルサレムへ帰る道は、希望に膨らんだ「大路(8節)」であり、どこからも良く見える、誰も見間違うことのない道である。ただそこを汚れた者は通れない。つまり、贖われた者のみが通れる、という(9節)。ここに贖いの思想が突如出て来る。そしてこの限定が、当時の時代を超えた、終末的な意味を考えさせてもくれる。
贖いは犠牲動物によって流される血によって罪赦されること、また代価を支払って奴隷状態から解放されることを意味する。となればここは単純に捕囚帰還民ではなく、血の代価によって神との特別な関係を持った者、つまり、主イエスの十字架にある罪の赦しというたましいの贖いを得ている者を語っている。そして「聖なる道」は、世から解放された終末的な新天新地へ向かう道と理解される。だからその道には、もはや脅かす獅子も猛獣もなく、悩ます愚か者もいない、そして「楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きとは逃げ去る」(10節)。打ち破れ、回復に手ごたえのない日々を感じ、焦燥に駆られている者は皆イザヤの言葉に励まされると同時に、聖なる道を辿る希望を持ちたいものである。