イザヤ書39章

イザヤ書39章 人間の複雑さを覚える
 おはようございます。ヒゼキヤの時代の国際情勢をよく理解したいところでしょう。ヒゼキヤの見通しの悪さに加え、彼の自己中心性や不信仰を垣間見るところです。形ばかりの信仰生活に、何の神の祝福があるのか、改めて考えたいところではないでしょうか。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.バビロンの使者
 メロダク・バルアダンは、アッシリヤの王、サルゴン2世の時代に12年間(BC721-709)、バビロンの王位にあった。一度アッシリヤに征服させられたが、後のセンナケリブの時代に独立を回復している。そのように勢いのある人物で、当時アッシリヤに征服されたり、その侵略を恐れたりしている国々が反アッシリヤ同盟を組んで抵抗する中心人物となった。その彼が、ヒゼキヤ王の快気祝いのために使者を送ったのも、反アッシリヤ同盟を強化する政治的な意味合いがあったからだろう。
ヒゼキヤはバビロンからの使者の来訪を殊の外喜び、宝物倉のすべてを見せた。それはユダ南王国の平和と安定を望む、バビロンとの同盟への期待の表れであった。だが、そのようなヒゼキヤの動きに、イザヤが警告を発する。アッシリヤにも、アラムやイスラエル北王国、エジプトとの同盟もダメである、と語って来たのに、今度はバビロンか、どうして目先の助けに頼もうとするのか、というわけだ。頼るべきお方は、ただお一人、天地万物のまことの神お一人である。実に繰り返されても悟りきれない人間の不信仰な姿がそこにある。
なおこの話には後日談がある。メロダク・バルアダンは、広く盟友を集め、遠くユダ南王国にまで足を伸ばして反アッシリヤ同盟を築こうとしたが、センナケリブの執拗な攻撃に、BC692年、とうとう追い詰められて没している。この出来事があったのは、まさにそのあがきの中であった。初めからそんな彼の運命がわかっていれば期待もしない同盟に、ヒゼキヤは期待したのである。だが、それが人間の限界であり、愚かさでもある。予めわかっていれば頼りになどせぬものを頼りにする、見通しの悪さが人にはある。
2.ヒゼキヤの信仰の本質
ところで、ヒゼキヤは、イザヤの警告に対して、「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい」彼は自分が生きている間は、平和と安定があるだろう、と思ったのである」(8節)と答えている。自分に裁きがなければそれでよしとする、ヒゼキヤの自己中心的な態度が語られているところである。ただ思うに、人間は、神信仰に狂いが生じると、やはりこのような自己中心性に陥ってしまうものなのではないか。信仰は形ばかりで、中身は俗人ということはよくあることだろう。聖書も開くし、祈りもする、教会の奉仕もするが、考え方はこの世の人々と同じ、物質主義、損得勘定、上昇志向の世界で生きていることがある。神の愛も正義も何もない。アッシリヤがダメであればアラム、アラムがだめであればエジプト、エジプトがだめであればバビロンと常に目に見えない神よりも現実社会の勢力均衡の動きに乗じるヒゼキヤはまさにそのような人であり、最後の一言はまさに信仰無き人格の象徴だろう。不信仰と自己中心性は表裏一体である。いのちある信仰生活に進みたいものである。