イザヤ書44章

44章 目に見えぬ神を信頼せよ
おはようございます。ここ東京の二子玉川は紫陽花の綺麗な季節となりました。先月まではバラが満開でしたが。私たちの努力とは無関係に得られる、神の祝福の一つでしょう。神の恵み深いお取り扱いの中に、日々、私たちが守られていることを覚えたいものです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.恐れるな
 「恐れるな、私の祝福を注ぐ」捕囚の民に対する回復の預言である。それは、心萎えた者、希望を失った者にとって力強い預言であった。神は言う。「潤いのない地に水を注ぎ、乾いたところに豊かな流れを注ぎ」(3節)「流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生え」(4節)させる、と。神の力強い後ろ盾のもと、回復再建の希望を感じさせることばだ。そのように関わられる神というお方は、どのような方なのか。神はあなたの造り主であると言う(2節)。神はあなたの主である。そして他に神はいない、という。まことの神がおられて、そのお方はただお一人である。その神が、語られたことは必ずなる。確かに、このお方は、イスラエルの歴史を通して、幾たびも素晴らしい奇蹟の業を起こされて来た。イスラエル人はその証人である、と言う(8節)。
2.偶像崇拝の虚しさ
 そこで神は偶像崇拝の虚しさと矛盾を語る(9節)。石であれ、木であれ、人間の手により造られた偶像は、見ることもできず、知ることもできない。神が人間を造られることがあっても、その逆、人間が神を造り出すことはできない相談だ。実際どんなに、杉や樫の木をかんなで削り、彫り刻み、美しく仕上げても(12,13節)、それに人間の魂を救う力も、人間の未来を動かす力も宿ることはない(15節)。むしろ、人間は、同じ材料を用いて、食事や暖をとるための燃料にしている(17節)。一種の風刺である。
商売繁盛、無病息災、家内安全と、人は偶像を拝むが、もはやそのような原始的、迷信的な信心の愚かしさに気づいていく必要がある。それは空しい信仰心である。むしろまことの神がおられて、語り掛けている。「わたしに帰れ(22節)」と。
3.キュロス
 ところでこの預言は、バビロン捕囚からのイスラエルの帰還(26節)、バビロンの滅亡(27節)、そのために神に用いられる解放者ペルシヤの王キュロスの名を語る(28節)。
しかしキュロスが登場するのはこの約1世紀以上後のことである。そこでこの箇所は、イザヤが書いたものではないとする説がある。また、「キュロス」はもともと個人名ではなく「支配者」の一般的な名称で、後にこの預言を読んだペルシヤの王が、これに合わせて自らをキュロスと称するにようになったとする説もある。しかし、そもそも預言は、神の言葉の託宣である。歴史を支配される永遠の神が、イザヤに、彼がまだ知り得ぬ人物の名「キュロス」語り伝えることもあるだろう。大切なのは、私たちが神をどのような方として認識するかである。目に見える木や石で作られたものを神としてよしとするか、それとも目に見えない、天地創造のまことの神を覚えられるかどうかである。生ける神は語る。恐れるな、と。