イザヤ書45章

45章 私が神だ。ほかにはいない
おはようございます。キュロスについての預言が続くところです。しかし、ペルシャの王キュロスに当てはめて解釈するには限界もあり、一般的終末的に解釈するのがよいとされる部分です。その趣旨は、生けるまことの神への注意喚起というべきでしょう。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.キュロスの預言、終末の預言
44:28-45:13は、一般にペルシャの王キュロスについての預言とされる部分である。それは、イザヤが生きた時代の130年後のことを語っている。そこでその預言の正確さよりも、その預言が何を言おうとしているかに注目することが大切となる。
神は、キュロスを歴史の表舞台に立たせ、勝利を与え、イスラエル人を解放しエルサレムを再建するご自身の計画を進めさせる、と言う。しかし神は、なぜ異教徒のキュロスを用いようとされるのか。捕囚帰還が第二の出エジプトであるなら、第二のモーセもユダヤ人から起こされるべきではないか。ユダヤ人には納得のできない預言であった(9節)。しかし、イザヤは陶器と陶器師のたとえを用いて、それが神の御心でありご計画である、と強調する。神は創造主であり、万物に自分の力を及ぼす主権者である、と(12節)。
ただ、キュロスは、確かに古代オリエント諸国を統一し、イスラエル人の祖国帰還を許可し、その解放を実現したが、14節に描かれたように、古代エジプトを征服したことはない。だからここは、具体的な歴史に当てはめるよりも、一般的、終末的に解釈することが妥当であるとされる。
2.自分を隠す神
15節、イザヤは、突如、神への自らの思いを語る。「あなたはご自分を隠す神」宗教改革者マルチン・ルター以降、その真意を巡って様々に解釈が議論され続けて来た用語である。それは、神が、ご自身の意図を隠されて、物事の全体像を直ぐには(イザヤの時代には)明らかにしようとされない、ということを語っているのか、それとも、神は聖霊によってのみ知られるお方であるから、罪人は聖霊の導きがなければ、啓示された神の偉大な救いを理解することはできない、ということを語っているのか。他にも解釈しうる用語であるが、とりあえず後者が妥当かと思っている。七十人訳は「あなたは神であられる。しかし私たちは知らない」と訳している。つまり、ここに至るまで繰り返されて来たことはまことの神ではない偶像を神として崇める人間の無知蒙昧ぶりである。14節、「神はただあなたのところにだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はない」18節「わたしは主。ほかにはいない」に挟まれて、イザヤの心には、まことの生ける救い主であり、創造主である神が意識されている。そして、隠れたところでは語れなかった神が意識されている。しかし、イスラエルの子らはこの方を知らない、知ろうともしない、そして偶像に走る、その悲劇が指摘されている。だから言う「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」と。イギリスの説教家チャールズ・H・スポルジョンは、このことばによって信仰を持ったという。教会にこそまことの神がおられる。その神を求めることとしよう。