イザヤ書46章

46章 神は私たちを愛している
おはようございます。偶像とまことの神の違いが対比され、神への信頼が促されます。急激なサイバー化が進む、高度な科学文化を達成している今日においても、人間は愛と義に満ちた神の存在抜きに、正しい道を進むことはできないのではないでしょうか。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.お荷物の神か、背負ってくれる神か
 マルチン・ルターは、自分の力や知恵、また敬虔さや富、名声、権力その他何にでもそのようなものに拠り頼む者は、偶像崇拝の罪を犯している、と語ったという。偶像崇拝は、単に木や石を彫って形作られた偶像を拝むだけのことではない。自分を神として、自分の名声や富みに拠り頼むことも、また真の神を認めない偶像崇拝なのである。
 1節、「ベル」は、バビロンの主神マルドゥクのヘブル名である。シュメール人の風と嵐の主神エンリルの別称で、聖書では、ダニエルたちが礼拝するのを拒んだ神であり、「ネボ」はその息子と考えられている。その偶像が「かがみ、ひざまずく」とは、バビロンの崩壊を意味する。それらが征服者によって戦利品として獣の背中に乗せられて持ち運ばれていく。それは単なる厄介なお荷物ではないか、と皮肉られている。これに対して聖書の神は、そうではない。むしろ、イスラエルの民を「胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれ、白髪になっても背負う」(4節)神である。偶像の神とまことの神の違いが明らかである。まことの神は人間を創造したお方であり、これを死に至るまで世話し、守られ、導かれる。しかし偶像の神は、人間が造り、人間が運ばなければならないもの。「これに叫んでも答えず、苦しみから救ってくれない」(7節)。「このことを思い出し、勇み立て」(8節)、つまり理性を働かせてよく考えよ、という。信仰は一面クールなのである。
2.神の業を思い起こせ
「遠い大昔のことを思い出せ」(9節)という。具体的にアブラハムの選びと出エジプトのことが想定されている。神はもう一度新しい選びと新しいエジプトを起こそうとされている。遠い大昔の事を思い出しながら、神が今も同じように偉大な業を成そうとしておられると期待せよ、というわけである。やはり求められるのは信仰だ。
 神は、「後のことを初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、計画を立てて、それを実行する(11節)」「わたしの救いが遅れることがない(13節)」という。なんとかならないか、と不安と焦燥感の中で時を過ごすのではなく、ただ主に信頼し、忍耐をもって、日々の務めを果たすように考えることだ。
神は生きておられる。木や石でできたもの、金や銀で飾り立てたものではない。神は形にすることはできない霊的な存在である。その神の救いは「遅れることがない」。たとえ遅れているように感じることがあっても、神の計り知れないみこころを覚えて、神の定められた時を待ち、神に服従することが最善である。それは空しい期待ではない。なぜなら神は私たちを胎内にいる時からにない、生まれる前から運び、しらがになっても背負う、私たちを愛する神だからである。神は私たちを愛している。神の愛に信頼しよう。