イザヤ書48章

48章 バビロンから逃れよ
おはようございます。イザヤのことばを、それぞれの時代の人々が、それぞれの時代の意味付けを持って読んだことでしょう。今の時代に生きる私たちはこれを以下に読むべきか、その本質的なメッセージを捕まえたいところです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.バビロンからの解放
 この章は、後半40章からの区切りと、つまり第二イザヤと呼ばれる終わりの部分、と見なされることがある。というのも、48章が呪いの宣告で終わり、バビロンの滅亡とキュロスに関する預言も、ここで終わっていて、これ以降は、より後の時代のメッセージとなっているからだ。
1節「聞け」と言う。率直にイスラエルの不信仰が責められている。イスラエルは、本来、祝福の基となるために選ばれた民であった。しかし、彼らは神の使命に生きることはなかった。3節、「かつて起こったこと」は、恐らく出エジプトのことであろう。神はモーセに出エジプトの計画を告げられたが、イスラエルの民はそのことばを信じなかった。彼らはいつも心を頑なにし、その心は偶像に向かった。「首筋は鉄の腱、額は青銅」(4節)と比喩的に語られるように、服従できず、堅く心を閉ざしていた。だから、今、神はイスラエルに新しい出エジプト、実際には、キュロス王によるバビロンの破壊と、イスラエルの解放を告げても、それがわからない。「新しい事」「あなたの知らない秘め事(6節)」を告げても、それを理解する力がないし、信じることもできない、というわけである。
 「それは今、創造された。ずっと前からではない。」(7節)。この「今」をどのように考えるか。神の創造のみわざは、はるか創世の時代に終わっている。しかし、実際に神が、この混沌とした世の中に、新しい創造を起こすことなど難しいことではない。バビロン捕囚の状況がどれほど動かしがたい現実であれ、神に、新しい時代を興すことは、不可能ではない。不可能性の中に神の可能性を信じる信仰が求められている。
2.バビロンから出よ
 12節、再び「聞け」と言う。前半の「聞け」と異なるのは、焦点がイスラエルの民ではなく神に向けられていることである。神の可能性を信じるために、神をよくよく知るべきである。そもそも私たちが信じるべき神はどのような方か。「わたしは初めであり、また終わりである」は神が万物の根源であることが語られる。その神が、事をなされるのだ(14節)。
 さらに神は「あなたを贖う主(17節)」であると言う。神は私たちに「益になることを教え」「歩むべき道に導き」何よりも、私たちをしあわせにするお方である。それはアブラハムの人生とイスラエルの歴史に証しされた、根拠のあることである(19節)。
大切なのは、このメッセージを耳に、決断を迫られた人々が誰であったかだ。それは、後の時代、後少しで滅びようとするバビロンで、安逸に暮らしていたユダヤ人に対してであろう。「バビロンから出よ。カルデアからのがれよ」(20節)。主のことばは、常に本当の幸せのありかがどこにあるのかを予め語り継げている。