イザヤ書49章

49章 主のしもべ
おはようございます。聖書を読み、これが語られた時代背景を思い浮かべる時に、実にこれは神の言葉以外の何物でもないことを思うところがあります。人にはこのようなことばは語れない。罪人の混沌とした社会に輝く、一条の光というべきものでしょう。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.第二のしもべの歌 
3節の「しもべ」は誰を指すのだろうか。彼は、神に召され、神の栄光を現すことが約束されている。彼は与えられた使命が困難なものであり、それが「むだな骨折りとなり、むなしく自分の力を使い果たす」ものになることを予測している。しかし自分の使命が神からのものであり(4節)、イスラエルのみならず、諸国の民、つまり異邦人にも救いをもたらすものであることを確信している(6節)。
 「しもべ」をイスラエル民族であると集合的に理解することもできるが、5節でそれは否定される。しもべとイスラエルははっきり区別されている。また、第一のしもべの歌(42章)もそうであったが、ここでは、バビロン捕囚からの解放とエルサレムの再建を超えて(10-12節)、さらにメシヤによってもたらされる終末的な解放と永遠の救いの希望が語られている。このように神の使命を身に受けて、困難であることを予測しながら、これに立ち向かう終末的人物は、イエス・キリスト以外に誰が該当するだろうか、と思われるところである。
2.シオンの回復
しかし、このような終末的な栄光を示されても、現実は厳しく、心が萎え、その希望に立つことができない、ということがあるだろう。イザヤの力強い励ましを読む時に、これが神のことばでなく何であろうかと思うところがある。イザヤから出たものではなく、まことに人をお造りになり、人を命を与えられた神のことばとして読む他はないことばである。
神は、二つのたとえをもって、人に対する神の変わらぬ愛を告白される。一つは、母親である。母親の愛の深さをとりあげ、母親が乳飲み子を忘れるわけがない、ならばまして神は、という(15節)。またもう一つは、手のひらに、恋人の名を入れ墨にする古代の習慣(雅歌8:6)を取り上げ「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」という。神は、私たちの名を自分の身に刻むほどに、私たちを愛している。ならば、神が約束を果たさないことがあろうか、というわけである。そして神は過去の存在ではない。「わたしは生きている」という(18節)。神は生きて働かれるお方である。シオンは「花嫁」に、イスラエルの民は「飾り物」と「帯」に例えられ(18節)、廃墟となったエルサレムが建て直されること、いやそれ以上に町に人が溢れ、繁栄を享受する神の計画が語られる(19節)。それが現実に起こった時に、誰もこれが自分の力でなしえたことだと思う者はいないだろう(21節)。むしろ、神が約束どおりのことをしてくださったことを認識するのである。確かに、神を「待ち望む者は、恥を見ることがない」(23節)。人には、恥辱と、蔑みに苦しめられる経験があるものだ。しかし、その中で腐り果ててはならない。神は、私たちの味方であり、私たちの救い主、贖い主、そして強き助け手である。罪人に対する神の愛を経験することが人生の目的である。