イザヤ書51章

51章 神の祝福を信じる
おはようございます。「酔っていても酒のせいでない者よ」まさに、悩みに酔いつぶれている時は過ぎ去りました。「目覚めよ」と言います。人生の再スタートは、人が置かれた絶望的な現実からではなく、神が語りかけている現実から出発するのです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神を信頼せよ
イザヤのメッセージは単純である。繰り返し、祝福の神に目を向けよ、と言う。アブラハムやサラがいかに祝されたか。跡継ぎもなく、ただ無器用に神に従っただけの老夫婦が、どのように祝されたのかを考えよ、という。神を認め、神に拠り頼め、そして神の助けを得よ、という。しかし、人は神を求めず、頑なである。そして、人のそしりを恐れ(7節)、人のののしりに心折れ、先に進めない思いの中でよどんでいることがあるものではないか。
しかし、たとえあなたをそしる者、ののしる者の勢いが、いかに強くあろうとも、神の力はそれ以上である。神は人に加勢してくださる。ただあなたが思うような方法ではなかったりする。人は、敵対者の攻撃を一瞬に除き去って欲しいと願う。だが神は、そのようにはなさらないことがしばしばである。じわじわと、私たちが苦しんでいる間に、敵する者も同じようにじわじわと弱めていく方法を取る(8節)。まさに敵に「燃える炭火を積む(ローマ12:20)」ことをもってよしとし、その結果は先に見ることになることがある。
大切なのは、「わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたる」(8節)とあるように、神の正義は貫かれることだ。神に、信仰を抱く、信頼を置く、イザヤはただこの一つを語るが、人はその一つの真理の前に逡巡してしまう。
2.人を恐れるな
だからイザヤは言う。「目覚めよ、目覚めよ(9節)」「わたし、わたしこそ、あなたがたを慰める者。あなたは何物なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。13節「滅びに定められているかのように」恐れているのはどうしたことか。神には自然を支配する力がある(15節)、神を信頼せよという。嵐を恐れたペテロがイエスに語られたように、恐れる脅威などないのである。「酔ってはいても、酒のせいではない者よ(21節)」まさに、人は酒に酔うかのように、悩みに酔い、飲まれてしまうことがある。だがもうその盃を捨てよ、と神は言う。かつてイエスは、38年も病にかかり、ベテスダの池に伏せていた人に、「良くなりたいのか」と自分の人生の目的を思い出させたように、神はあなたに人生の目的が何かを問う。あなたは、打ち破れ、確かに今や無一文、孤立無援のごとく思っているかもしれない。しかし、アブラハムに倣い、何も持たざる老夫婦が、ただ神の祝福の招きに一歩を踏み出したように、立ち上がる時が来ている。かつて「できるものなら、と言うのか。信じる者にはどんなことでもできるのです」(マルコ9:23)とイエスは言われた。まさに、「信じます。不信仰な私をお助けください」(24節)と、神のことばに身を投じるのだ。神の裁きは終わったとイザヤは言う。また十字架は、私たちの呪いの終わりを告げている。この神が語られた現実から出発するのだ。神の祝福を信じよう。

イザヤ書50章

50章 主は私を助ける
おはようございます。事態は常に逆である。そんな事実を考えなくてはなりません。神が私たちを忌むべき罪人として拒んでいるのではなく、人間が神を過小評価し、その器を小さく考えていることがあるものでしょう。神の偉大な愛の中に飛び込んでいきたいものです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神は離縁せず、売り飛ばさない 
 1節「あなた方の母親を追い出したという離縁状は、どこにあるのか」ここで想定されているのは、母親と子に例えられるエルサレムとその住民である。エレミヤは、「配信の女イスラエルが姦通をしたので、わたしは離縁状を渡して追い出した(エレミヤ3:8)と語ったが、イザヤは、エルサレムについて言えばそうではないのだ、と言う。捕囚の民となり、国を失ったイスラエル、もはやだれも国の再興を期待することはできなかっただろう。それは離縁状を渡され見捨てられた妻に等しいことであった。しかし神は言う。その離縁状があるのなら、出してみろ、と言う。また奴隷のたとえが語られる。「わたしがあなたがたを売ったという、私の債権者とはだれなのか」(1節)、と。神は人を創造した。その創造者が人間を売却するのなら、一体誰がそれを買うのか。誰もいない。
 人には人を離縁する冷たさがある。あるいは人を売る残酷さがある。「一緒に幸せになろうね」と言いながら、いつしか疎ましくなり、自分の思いにそぐわぬことになれば、紙切れ一枚で関係を解消しようとするところがある。あるいは人のたましいの値打ちなど秤もせず、犬猫と同じように値段をつけて売り飛ばす蛮行がある。しかし、神は神であって人ではない。神が人を嫌うことも、見捨てることもない。むしろ、人が神を見捨てる。最初の人アダムがそうであったように、人が神に背を向け、自らを離縁させていく。
2.第三のしもべの歌
 4-9節は、第三のしもべの歌と呼ばれる。第一の歌(42:1-9)、第二の歌(49:1-6)、第四の歌(52:13-53:12)と、イザヤ書にはしもべの歌と呼ばれる一群がある。しもべは種々解釈されるが、第四の歌が頂点となるので、後でまた取り上げるが、神は、窮地に立たせられた人間の苦悩を見逃す方ではない。
だから、呼びかけておられる。自分の元に戻ってくるように招いておられる。しかし、人は、その神の愛を受けることができずにいる。自分は追い出された者、関心を向けてもらえない者と思っている。またもや人の心が神を堅く締め出している。事態は常に逆である。神は、闇の中にある人を助け出されようとしている。人が神を捨て去り、反逆の牙をむいても、神はそれを超えて私たちを助けられようとしている。「闇の中を歩くのに光を持たない人は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め」(10節)。しかし、自分の力になおも頼ろうとするのなら、つまり、なおも「火をつけた燃えさし」に拠り頼もうとするならば、その結果は「苦悶の場所で伏し倒れる」(11節)ことになる、という。人の光ではなく、神の光こそ、まさに暗き世の光なのである。何の望みもないと思う時にこそ、私たちに熱い思いを持って救い出そうとしておられる主により頼もうではないか。