イザヤ書52章

52章 慌てなくてもよい
おはようございます。罪を犯した者に対する神の優しさが溢れる箇所というべきでしょう。神は、私たちの心を捻じ曲げないお方です。そうであればこそ、素直に心開き、神の言葉と取り組み、神と良く語り合う、よき時を持つべきでしょう。新しい人生の力はそこに生じるのです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神は確かにおられる
 1節、「無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中に入って来ることはない。ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け」神は私たちに命じられる。もはや、誰も私たちを脅かす者はないのだから、いつまでも座り込んでいてはならない、と。むしろ、そこから立ち上がって元の座に着け、と。「力をまとえ」「美しい衣を着よ」と力強い。
3節、「あなたがたは、ただで売られた。だから金を払わずに買い戻される」捕囚の民は、戦争に負けたために、何の値踏みもされずに、ただで奴隷として連れ去られた惨めな者たちであった。そこで神はただで、つまり奴隷と言う不名誉な烙印を押すことなく、そのまま取り戻してくださる、という。
 神は、このイスラエルの苦境を、ご自分に対する侮りとして受け止められていたのである(5節)。神がおられる、神は愛である、というのに、このざまは何だ、というわけだろう。もちろん、イスラエルの苦境は、彼らの咎の故に起こったことであり、神の裁きに他ならない。しかし神はやはり愛であり、神は人が行く当てのない者であることを知っておられる。神は正義の神であり、祝福の神である。そうであれば、神はいつまでも怒り続けることはなく、いつまでも放っておかれることもない。ああ、確かに神はおられたのだ、確かに神は愛なのだ、とわかるようにしてくださる、と言う。
2.立ち上がれ
 このように生ける愛の神がおられるというのは実に「良い知らせ」であり、それを伝える者は、素晴らしい存在である。これをパウロはイエスの救いの知らせに適用した(ローマ10:15)。確かに神がおられて、万物の王であることを覚えればこそ「塵を払い落として、立ち上がれ」という命令も素直に受け止められよう。11節は、直接的には第二の出エジプト、バビロンからの脱出を語るものとされる。しかし、大きな文脈からすれば、私たちにも語り掛ける霊的な出エジプト、今閉じ込められた苦境からの脱出と言うべきだろう。そして12節に注目したい。「慌てて出なくてもよい」という。立ち上がる力がなければ立ち上がる力が自分の中に満ちてくるまで待つということだ。「主があなたがたの前を進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられる」。神は立ち上がれと言うが、それは叱咤激励ではない。神は「もう行こうか」と人が自分の足で立ち上がるのを待っておられるのである。
 13節以降は、第四のしもべの歌である。これまでの至高なるしもべとは反対に、低く卑しい、しもべの姿が語られる。そのしもべは、世界中の国々に認められ「驚かす」存在となる。いわゆる53章に続くイエスの十字架の預言である。確かにそれは「まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないこと」であった。神の愛の深さが語られていく。